Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
1893年3月、スチーブン・クリーブランド(Stephen Cleveland)が2期目の大統領に就任したとき、アメリカは金融恐慌の瀬戸際にありました。6年間続いたミシシッピ西部の不況、マッキンリー関税法の施行による外国貿易の衰退、民間債務の異常な高止まりなど、不穏な情勢にありました。しかし、最も注目されたのは、連邦財務省の金準備高でした。政府債務を金で償還するためには、最低1億ドルの準備金が必要だと考えられていました。1893年4月21日、金準備高がこの金額を下回ると、心理的な不安は広範囲に及びます。投資家は保有金を金に換えることを急ぎ、銀行や証券会社は苦境に立たされ、多くの企業や金融機関が破綻しました。物価は下がり雇用は減り、深刻な経済不況が3年以上続きます。
この金融不安の原因は多岐にわたり複雑でしたが、金準備高に注目すると、財務省の金供給量の回復という一点に関心が集中しがちでした。財務省の資金流出の主な原因は、大量の銀を購入する義務にあると広く信じられていました。そのためには、シャーマン銀買入法(Sherman Silver Purchase Act)を廃止することが必要であるとされました。
この問題は、経済的なものであると同時に、政治的なものでありました。この問題は両党を二分するものでしたが、銀政策の提唱者の多くは民主党でした。しかし、クリーブランドは、長い間、銀買い入れ政策に反対しており、この危機に際して、財務省を保護するために不可欠な措置として、シャーマン銀買入法の廃止を決意します。そして彼は1893年8月7日に特別議会を招集します。
新議会は、上下両院とも民主党が過半数を占め、マッキンリー関税の撤廃を支持していました。銀貨の増刷を支持する議員が民主党議員の半数以上を占めていたため、銀の問題に関しては議論になりませんでした。クリーブランドは、議会で廃止を強行することは至難の業でありましたが、あらゆる権力を行使して目的を達成します。シャーマン銀貨購入法は、10月末に銀貨鋳造の補償規定がない法案で廃止されます。クリーブランドは、個人的には大勝利を収めるのですが、党内は分裂し、国内ではその時代で最も不人気な大統領となりました。
クリーブランドは議会が可決した法案に拒否権を次から次に発動した大統領として知られています。彼は580回以上の拒否権を発動しました。4年の任期を終え、4年後の1893年に再度就任した最初の大統領としても知られています。
