アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その100 ウィリアム・クラーク大佐

Last Updated on 2025年3月25日 by 成田滋

ウィリアム・クラーク(William S. Clark)は、化学、植物学、動物学の学者で、後に札幌農学校の学長として活躍した人です。マサチューセッツ州(Massachusetts)のイーストハンプトン(Easthampton)で育ち、成人期のほとんどをマサチューセッツ州アマースト(Amherst)で過ごします。彼は 1848 年にアマースト大学(Amherst College)を卒業し、1852 年にドイツのゲッティンゲン大学(Göttingen)で化学の博士号を取得します。その後、1852 年からアマースト大学で化学の教授を務めました。

 クラークの学歴は南北戦争によって中断されます。クラークは、戦争における北軍の大義を熱心に支持し、アマースト大学で学生の軍事訓練指導に参加し、多くの学生を軍隊に志願させることに成功します。 1861年8月、マサチューセッツ第21志願歩兵連隊(the 21st Regiment Massachusetts Volunteer Infantry)の少佐に任命されます。彼は第21マサチューセッツ連隊に2年近く従軍し、最終的には1862年に中佐(lieutenant colonel)、1862年から1863年まで大佐(colonel)としてその連隊を指揮します。

 第21志願歩兵連隊マサチューセッツは、最初の数か月間、メリーランド州アナポリス(Annapolis)にあるアメリカ海軍兵学校(Naval Academy)で駐屯任務を割り当てられました。1862年1月、連隊はアンブローズ・バーンサイド少将(Ambrose Burnside)が指揮する沿岸師団に配属され、ノースカロライナでの作戦に向けて師団と共に移動します。クラークは 1862 年 2 月に連隊の指揮を執り、1862 年 3 月 14 日のニューバーンの戦い(Battle of New Bern)で連隊を指揮します。

 その行動で、クラークは連隊が南軍の砲台に突撃し、敵の大砲にまたがり、彼の連隊を前進させるのです。この大砲は、交戦中に北軍が捕獲した最初の大砲でした。アマースト大学の学長の息子であり、この戦闘で戦死した第 21 マサチューセッツ連隊の副官であるフラザール・スターンズ中尉(Frazar Stearns)に敬意を表して、バーンサイド将軍からアマースト大学に贈呈されます。その大砲はアマースト大学のモーガンホール(Morgan Hall) 内に設置されました 。

 1862年7月にマサチューセッツ第21連隊が北ヴァジニアに移された後、連隊は最終的にポトマック軍(Army of the Potomac)の一部となり、第二次闘牛場の戦い(Second Bull Run)、アンティータムの戦い(Antietam)、フレデリックスバーグの戦い(Fredericksburg)など、この戦争における最も大きな戦闘のいくつかに参加した.連隊は、1862 年 9 月 1 日のシャンティリーの戦い(Battle of Chantilly)で最悪の犠牲者を出します。森の中で雷雨をついての戦いの混乱の中で、クラークは連隊から離れ、ヴァジニア州の田園地帯を 4 日間さまよい再び軍隊に戻ります。彼が行方不明になっている間、戦死したと誤って報道され、アマーストの新聞は彼の死亡記事を「またも一人の英雄が去った」(Another Hero Gone)という見出しの下に掲載したほどです。

 退役後、1867年にクラークはマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College: MAC)の第 3 代学長に就任します。彼は教員を任命し、州内の学生を集めた最初の人となります。当初は大学の運営は成功していたものの、MAC は政治家や新聞編集者から、急速に産業化が進んでいる州で農業教育において資金を無駄にしているとの批判を受けます。マサチューセッツ州西部の農民は大学を支援するのが遅かったのです。これらの障害にもかかわらず、革新的な学術機関の組織化というクラークの業績は、やがて国際的な注目を集めます。その一つが札幌農学校への赴任と発展です。

 ウィリアム・クラーク博士の業績は、農学教育のリーダーとして札幌農学校、そして北海道大学の発展に寄与されたことが強調されがちです。ですが 軍歴についてはあまり知られていません。農学校でも学生に規律及び諸活動に厳格かつ高度な基準を設け士官養成を狙いとしたことが知られています。

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