アメリカの公的医療保険制度ーメディケア その二 制度の歴史

Last Updated on 2025年5月11日 by 成田滋

合衆国における「メディケア」という名称は、もともと1956年に制定された扶養家族医療法(Dependents’ Medical Care Act)に基づき、軍務に就く人々の家族に医療を提供するプログラムを指していました。ドワイト・アイゼンハワー大統領(Dwight D. Eisenhower ) は1961年1月、ホワイトハウスで第1回高齢者問題会議を開催し、社会保障受給者のための医療プログラムの創設を提案しました。

 高齢者医療制度を規定する法案を議会で可決しようという提案が何度も試みられましたが、いずれも失敗に終わりました。しかし1963年、メディケアと社会保障給付の増額を規定する法案が、68対20の票差で上院を通過します。ある調査によりますと、「限定的ではあったが、医療保険に対する連邦政府の財政責任の原則を表す法案を両院が可決した」初めてのケースでした。しかし、ホワイトハウスの一補佐官が、メディケアを含む下院議員会議法案に対する下院議員の投票結果を集計したところ、「メディケア賛成」が180票、「おそらく賛成」が29票、「どちらともいえない」が222票、「反対」が4議席であったため、この法案が下院を通過するかどうかは不透明でした。

リンドン・ジョンソン大統領

 しかし、1964年の選挙後、メディケア推進派は下院で44票、上院で4票を獲得します。1965年7月、リンドン・ジョンソン大統領(Lyndon B. Johnson) のリーダーシップの下、議会は、社会保障法の第18条に基づき、収入や病歴にかかわらず65歳以上の人々に医療保険を提供するメディケアを制定します。元大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)とその妻で元ファーストレディのベス・トルーマン(Bess Truman) がこのプログラムの最初の受給者となりました。

 メディケア創設以前は、65歳以上の約60%が健康保険に加入していました。65歳未満の人口では約70%でした。しかし、高齢者は若年層に比べて医療費を3倍以上支払っていたため、他の多くの人々は保険に加入できない、あるいは加入できないことがよくありました。この層の多く2022年には全体の約20%、そのうち75%はメディケイドの全給付を受ける資格がありました。メディケアと連邦政府が州政府と共同で行っている医療扶助事業のメディケイド(madicaid)の両方に「二重資格」を持つようになりました。1966年、メディケアは人種隔離撤廃に基づき、病院のフロアや診療所における人種統合を促進することにも貢献します。

 メディケアは1965年以降、いくつかの大きな変更を経ており、1972年には言語療法、理学療法、カイロプラクティック療法(chiropractic)への給付も含まれるように規定が拡大されました。1970年代には、健康維持機構(Health Maintenance Organization: HMO)への支払いオプションが追加され、1982年には高齢者を一時的に支援するためのホスピス給付が追加され、1984年にはメディケアが恒久的な制度となりました。

 議会は2001年にメディケアをさらに拡大し、前稿で説明した筋萎縮性側索硬化症(ALS、ルー・ゲーリック病)の若年患者も対象とします。その後も議会はメディケアの受給資格を、社会保障障害保険(Social Security Disability Insurance: SSDI)の給付を受けている若年患者と末期腎不全患者にまで拡大します。

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