この人を見よー内村鑑三 その十四 キリスト教国にて

「山にある者は山を見ず」は、「鹿を逐う者は山を見ず」という故事成語のことで、利益や目的ばかりに気を取られていると、周りの状況や全体像が見えなくなることの譬えです。内村鑑三は「山というものの真に調和のとれた姿は、ただ遠方からのみ望むことができる」と言います。同じことが各々の祖国についても言えるというのです。「その中に住んでいる間は、人は祖国の真の姿を知らない。統一総体としての祖国を理解するためには、祖国から遠く離れて立たねばならない。」

 内村はアメリカで滞在しながら次のように述懐します。「そこに住んでいる間は極端に一方的であった。まだ異教徒だったころの自分は祖国は宇宙の中心であり、世界の羨望の的だと考えていた。」、「神々みずからそこに住み、実に光明の源泉であるというのが、異教徒だったころの自分に写っていた祖国の姿であった。しかし、ひとたび回心した自分はその考えに疑問を持ち始めた。」

Huldrych Zwingli

 内村は、多くの大学やカレッジのあるアメリカについて、清教徒の本国なるイギリスについて、ルーテル(Martin Luther)の祖国なるドイツについて、ツイングリ(Huldrych Zwingli) の誇りなるスイスについて、ノックス(John Knox) のスコットランドについて語り聞かされていきます。そうしているうちに、わが祖国は全く「とりえのない国だ」という考えにとらわれていきます。日本の道徳的、社会的の欠陥に話が及ぶたびに、アメリカやヨーロッパではそんなことはないと語りきかされるのが常だったようです。こんな国が果たしてマサチューセッツ(Massachusetts)やイギリスのような国となり得るかと、自分は心から疑ったと回想します。

 しかし、遠く離れて波浪の異郷から眺めたとき、祖国はもはや「とりえのない国」ではなくなっていきます。それのみか、類いまれなほど美しく見えた始めたのです。それも異教徒だったころの美しさではなく、「その固有の歴史的使命によって宇宙間に確固たる地位を占める、真に均整のとれた調和の美しさである」というのです。そして、祖国日本こそは、高遠な目的と高貴な野心をもって世界と人類とのとのために存在する神聖な実在であると受けとめていきます。

 そればかりでなく、内村にとって外国旅行のもたらしたな収穫は、こうした体験のみではなかったようです。「人は異郷の空の下で暮らすとき、いかなる境遇にあるときにもまさって、自分自身の中へ、深く追い込まれる」というのです。逆説的に言えば、「我々は自分自身についてより多く学ぶために、広い世界へと出て行くのだ。世界とは、他の国民、他の国家と接触する場所以上に、自分自身をはっきりと示される所はない」と断言します。

Martin Luther

 ただ外国滞在にあたっては、自分は次の三つのことを経験したと言います。第一は異郷にあるかぎり孤独は避けがたいということです。そこで最善の交友の機会があっても、その国の言葉を自由に操ることができたとしても、自分は依然として一人の他国者であるというのです。楽しく面白い会話でも、時制や規則に合わせて動詞を正しく変化させたり、単数の名詞には単数の動詞を使ったとしても、似たり寄ったりの多くの前置詞の中から適切なものを選び出したして、余計な精神力を使わねばならないために、煩わしいものとなるというのです。友情のこもった晩餐会に招かれても一定の食卓作法にあわせたり、フォークとナイフを使って噛んだり飲み込んだりせねばならいために、おおかたの楽しみは失せるというのです。

 第二の経験は、人は国外へ一歩踏み出すとき、自分以上のものとなるというのです。海外では、自分の国と民族とを揃えて行くのです。自分の言行はもはや自分自身のものではなく、種族と国家のものとして批判されるというのです。外国に滞在する者は、ある意味において各自が祖国の全権公使であり、国と国民を代表するというのです。そして世界は、彼を通して彼の国を批判するのです。こうして高い責任感ほど人間をしっかりさせるものはないことを自覚するのです。この身が卑しくふるまうか気高くふるまうかによって、祖国が非難されたり賞賛されたりするのです。このことを知れば、あらゆる軽率や軽薄さは、直ちに自分から離れていくと言います。

 第三の経験です。それは郷愁がどんなものかを知るということです。それは性に合わぬ環境に対する自然な反動といえそうです。「見慣れた顔や山や野はもや目に映らない。聞こえる言葉は祖国のものではない。新しい環境に馴染もうと努めるにつれ、故郷はその妬み深い愛をもって、ますます我らを懐かしい思い出に結びつける」のです。その結果、憂鬱になり、心は時に涙に沈むのです。「故郷(ふるさと)は遠きにありて想うもの」を実感するのが海外での生活経験になるのです。

 まだまだ外国旅行や留学が珍しい時代に内村は異教徒の国アメリカに滞在します。彼の三つの体験は時代を経ても今の我々にも伝わる心情です。

綜合的な教育支援の広場

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA