新しい政治政党が誕生しました。その名は「中道改革連合」というのだそうです。「中道」とは右派(保守)と左派(革新)の中間に位置する立場というように解釈されます。この新党の綱領や政策を見ると、現実的で実務的、折衷的な政策を重視しがちで、「どちらの主張も一部取り入れる」とか「極端には寄らない」という意味合いが感じられます。というわけで「どちらの主張も一部取り入れる」「極端には寄らない」ということで、政治に使うと「妥協主義」とか「波風を立てない」という印象を持たれることもあります。
「極端には寄らない」ことの例は、減税も必要だが社会保障も重視するとか、規制緩和は進めるが、弱者保護も同時に行うというように受けとれます。政治的ポジションを示す言葉なので「中道改革連合」という党名は「右でも左でもなく、現実路線で改革する政党ですよ」という自己定義になります。
「中道」に似た言葉に「中庸」があります。なぜ政党名は「中庸」ではなく「中道」なのかという素朴な疑問が生まれます。「中庸」の出典は儒教の古典である「四書」の一つ『礼記』のなかに『中庸』が見いだされます。wikipediaによりますと、『礼記』は孔子の孫にあたる 子思の作と伝えられています。
「中庸」の「中」とは、偏らない、私心や感情に振り回されていない最適点、状況に応じて変わる「一点」と解釈されます。真ん中で止まる、という意味ではありません。次に「庸」の本来の意味は、常とか普段、持続するという意味で、一時的でなく、日常として実践し続けると解釈され、 偏らない最善の判断を、日常的に実行し続けることのが「中庸」であるとされます。
「中庸」は君主や官僚、知識人に求められる統治のための倫理でした。理由は明白で、感情に流されない極端な政策をとらない長期的な秩序を保つための思考法だったからです。民衆向けの道徳というより、支配者の自己修養的な手引きだったようです。
少し脇道にそれますが、日本社会で中庸が「事なかれ主義」と捉えられることもあります。その理由は、「中庸」という「高度な判断倫理」が、社会の運営上で「衝突回避の作法」に置き換えられていった、というのが大きいといわれます。儒教の「中庸」は状況を見極める高度な判断力で結果として調和(和)を生むという思想です。日本社会は「対立を処理する制度」が弱く、結果として 波風を立てないことが善しとされ、対立は「空気」で収める価値観が強化されました。従って、日本での「中庸」は責任回避と相性が良く、「中庸」が事なかれ化すると、誰も決断しなくていいとか、誰も悪者にならない、失敗の責任を拡散するという具合に、組織にとっては非常に都合がいいのです。でもその代償として、問題の先送りや改革の遅れとか、不満の内面化が慢性化したことは否めない事実です。
「中道改革連合」に戻ります。「中道」とは政治的に立場は中間ですが、行動や改革はできる印象があります。他方、「中庸」とは 消極的で優柔不断、現状追認に聞こえやすいことがあります。本来、「中庸」は「ちょうどいい」ではなく、状況ごとに変わる「最適解」を見極め続ける知的態度であり、妥協ではなく、むしろ高度な判断力と自制心を要求する思想とも言い換えることができます。だから政治のスローガンには向きにくいので、選挙や政党名では圧倒的に「中道」が選ばれるのだと思われます。

