無関心や傍観の帰結 その十一 戦前と戦後の文学活動

Last Updated on 2025年6月19日 by 成田滋

戦時下を生きた日本人は戦争にさまざまな苦労や辛酸をなめてきました。最も苦痛であったことは表現の自由を極端に制限されたことです。自分の意思を表明できませんでした。そうした状況の中で、文学者はどのように戦争に関わったのか、そして敗戦を経験し、戦後社会において戦争をいかに捉え直していったのかは興味ある話題です。

 東北大学の日本文学研究室の仁平政人准教授は、文学者による戦争への反応は多様であり、時期によっても変化するため、唯一の傾向を見いだすことは難しいと指摘します。ただし、日中戦争前の1935年頃、文壇は「文芸復興」が唱えられる状況にあり、戦争を強く意識する者は多くなかったといわれます。「文芸復興」期の中心は太宰治や井伏鱒二らで、「モダニズム」とか「新興芸術派」が醸成され、彼らに戦後の「大衆」の共感を喚起していったこといわれます。

 文芸誌『戦旗』で1929年に小林多喜二が「蟹工船」を発表します。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されました。全体に伏字があったとかで、文芸誌の6月号の編が新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分を受けます。この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的です。1930年7月、小林は「蟹工船」で不敬罪の追起訴となります。

 1938年頃の日中戦争勃発以後、反戦や厭戦をうたう表現は規制され、文学者は個人の思想に関わらず皆、国家との一体化を迫られていきます。この時期、彼らの中には戦地に赴き、文筆活動によって戦況を発信する「ペン部隊」として活動する者がいました。「ペン部隊」は、内閣情報部によって組織され、軍の要請を受けて中国や南方戦線に派遣されました。彼らは、戦地での体験を基に、戦意高揚を目的とした記事や小説を執筆し、新聞や雑誌、書籍などを通じて発表したといわれます。軍の広報活動を担った作家たちのグループには、林芙美子、火野葦平などがいて、戦意高揚を目的とした記事や作品を執筆します。

ペン部隊

 日中戦争に関わった「ペン部隊」の文学者にとって戦争は必ずしも肯定的なものではなかったようです。アジアの解放者を標榜する日本が実質的な侵略戦争を進めていることに彼らが気付いていったからです。こうした考え方を一変させたのが、1941年に始まる太平洋戦争です。これにより、多くの文学者にあった侵略戦争への抵抗意識が消失します。この戦争に、帝国主義的な英米らを相手としたアジア解放のための「聖戦」であるという大義ができ、それまで政府への協力に消極的であった文学者の多くも体制側に与していくのです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA