ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

Last Updated on 2020年3月12日 by 成田滋

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザの発給を受けたユダヤ人との再会

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。