アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その85 多様な奴隷制撤廃運動

Last Updated on 2025年3月24日 by 成田滋

制度上での様々な廃止で最も重要なことは、奴隷制撤廃論(Abolitionism)です。この運動は、熱烈に主張される一方で激しく抵抗され、1850年代には、政治的に失敗したようにみえました。しかし、1865年に、内戦という犠牲を払いながらも、憲法改正によってその目的を憲法に挿入するこに成功します。その核心は、3世紀以上にわたってアメリカ人が葛藤する「人種」という問題でした。

 このような時代にアメリカの北と南の地域間の対立という力学と絡み合ったとき、その爆発的な潜在力が最大限に浮き彫りになる現象が起こります。19世紀半ば、改革への衝動がアメリカ国民を団結させる共通のものであったのですが、その衝動が奴隷制度に現れたことで、4年間にわたる南北戦争(Civil War)という血と血で塗られ、遂にアメリカ国民は二つに分かれるのです。

 奴隷撤廃運動そのものも多様ではありました。その一端を担っていたのが、ウィリアム・ギャリソン(William Garrison)という人物です。彼は「即時主義者(immediatist)」として、奴隷制だけでなく、それを容認する合衆国憲法をも糾弾します。彼の新聞「リベレーター(The Liberator)」は、奴隷制に反対する戦争では妥協しないと宣言していました。ギャリソンの妥協のない論調は、南部だけでなく多くの北部の人々をも激怒させ、あたかもそれが奴隷制撤廃論全般の典型であるかのように扱われた時代が長く続いたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。

 撤廃論者には、セオドア・ウェルド(Theodore Weld)、ジェームズ・バーニー(James Birney)、ジェリット・スミス(Gerrit Smith)、セオドア・パーカー(Theodore Parker)、ジュリア・ハウ(Julia W. Howe)、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)、サーモン・チェイス(Salmon Chase)、女性解放論者でもあったリディア・チャイルド(Lydia Child)などがいました。チャイルドは女性と奴隷は白人男性から同じように不当な扱いを受けていると主張していました。こうした奴隷制撤廃論者はさまざまな立場で奴隷制度の反対論を主張しましたが、ギャリソンよりは融和的な立場にたっていました。

 伝記作家のジェームズ・ローウェル(James Lowell)は、奴隷撤廃論者の主張は、固定した感情に走るべきではないといいます。そして、ギャリソンとは対照的に「世界は緩やかに癒されていかなければならない」と訴えます。また、デヴィッド・ウォーカー(David Walker)ロバート・フォーテン(Robert Forten) などの自由黒人やフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)などの元奴隷の活動も重要でした。彼らは、この運動に取り組む明確な理由を持ちながら、白人の同僚たちとより広い人道的動機を共有しようとしました。

 アメリカでは独立後まもなく奴隷制は北部諸州で廃止され,奴隷貿易は1808年に全国的に廃止されます。しかし,南部諸州はミズーリ協定による奴隷制の継続を望み、これに対抗して共和党が結成されます。結局,南部では南北戦争後の1865年の憲法修正まで奴隷の使用が続きます。

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