「逆賊の幕臣」小栗上野介忠順

日本初の遣米使節として海を渡り、司馬遼太郎の言葉を借りれば新しい国のかたちをデザインし、江戸幕府の天才と呼ばれたのが小栗上野介忠順です。忠順の呼び名は「ただまさ」で、幕末に生きた“ラスト・サムライ”にして、誰よりも早く日本の近代化を担ったのです。やがて明治新政府に「逆賊」として葬られながらも、「明治の父」、「勝海舟のライバル」と呼ばれたのです。

小栗上野介忠順は、幕末の江戸幕府の外国奉行を担い、後に勘定奉行にもなります。今で言えば外務大臣であり大蔵大臣でした。安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)で渡米し、その後地球を一周して帰国します。ワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを日本へ持ち帰ったともいわれています。また、この遣米使節団の隠れた目的の一つが、通貨交換比率の交渉であり、その特命担当が小栗忠順といわれます。当時、諸外国との交換比率の違いが日本から金の大量流失を招いていました。小栗はフィラデルフィアの造幣局の一室でそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し不公平さをアメリカ側に納得させたという逸話があります。

 アメリカの工業力に衝撃を受け、その後旧横須賀製鉄所という造船所建設や近代軍制の整備など「国家百年の計」を描いた先見の明を持つ人物です。その功績から司馬遼太郎には「明治の父」と評され、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公となります。

 「幕府を守るためではなく、日本という国家を近代化させるために動いた人物」と小栗を評したのは司馬遼太郎です。さらに横須賀製鉄所の建設は、後の明治政府が引き継いだ最大の遺産として描いています。「たとえ幕府が滅びても、土蔵(製鉄所)付きの家(日本)が残ればよい」という小栗の言葉を引用しています。彼の献身が組織の利害を超えた国家レベルのものであるという先見性を強調するのです。小栗は反対を押し切って、フランスの制度の導入に邁進します。小栗が推進した軍制改革や外交政策は、当時の日本において合理的で、西洋の合理主義を正しく理解したがゆえに推進できたと評されています。

 司馬によれば、小栗は感情や情緒に流されないリアリストとして登場します。尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、小栗だけは計算とロジックで世界を見つめていた人物として描かれます。小栗の「冷たさ」や「傲慢」ともとれる姿勢は、周囲の無理解に対する知的な孤独感の裏返しであると分析し、その孤高さを一つの美学として捉えています。

 司馬は、明治維新を成し遂げた薩長土肥の志士たちを称賛するのですが、同時に彼らが作った近代日本のプランの多くは小栗が書いたものだった、と指摘しています。司馬はしばしば、同時代の人物と対比させることで小栗の独自性を浮き彫りにします。例えば、勝海舟などの他の幕臣と比較しても、小栗の能力を「行政官・技術官僚として日本史上稀に見る天才」と極めて高く評価しています。実に興味ある指摘です。

 司馬の明治観は、清廉で透きとおった公感覚と道徳的緊張をもっていた、ということに表れています。その代表が小栗上野介忠順ということのようです。

・参考文献 明治という国家(上) 司馬遼太郎 NHK Books

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