ウクライナの歴史から学ぶ その十二 レーニンのウクライナ政策

1919年12月、レーニンはウクライナの労働者や農民に公開状を送り、ロシア、ウクライナ両人民の平等性を承認するとともに、両者の同盟条約を提案します。この同盟はロシアへの併合に他なりませんでした。1922年12月の第一回ソ連邦ソビエト大会で、ソビエト社会主義共和国であるロシア、白ロシア(今のベラルーシ)、ウクライナ、ザカフカースの間の連邦結成案が可決され、1923年に憲法を発表し、ここにソビエト連邦を構成することになります。これによりウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生します。この頃、戦時の共産主義から転換し市場経済などを容認し生産力向上を目指したネップ(NEP)と呼ばれる経済政策が施行されます。

Vladimir Lenin

1920年代から1930年代にかけて、ウクライナの党や政府公式路線としてウクライナ化が採用されます。シュムスキー(Oleksii Shumsky)ら党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われます。ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えます。

Lenin and Stalin

ウクライナではウクライナ化が推進され、1923年の言語法ではウクライナ語をロシア語の上位におくことを宣言します。多くのウクライナ人亡命者は、ウクライナ化運動を推進するために帰国を始めます。しかし,1930年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示します。1921年に成立していたウクライナ独立正教会も解散に追い込まれます。その罪状は民族主義というものでした。1928年、スターリンはネップを放棄するとともにウクライナ化政策を停止します。ロシア語を第二公用語ともします。その後10年間、ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は民族主義者とか反逆者の汚名を着せられ逮捕され流刑となったり粛清されて、ロシア化の時代が再開します。1934年、ウクライナの首都はハリキウからキーウへ移されます。