1905年の血の日曜日事件のことです。ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による王朝への平和的な請願行進に対し、動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者が出ます。これによって始まったロシア第一革命以後、ウクライナ語の新聞や書物の出版が認められるようになります。かつてのロシアでは、東ガリツィアの住民もルテニア人もロシア国籍でありました。しかし、帝政ロシアは第一次大戦で敗北し、革命に巻き込まれていきます。
ウクライナは統一と独立を達成する機会がやってくると考えます。ウクライナ民族会議が1917年4月にキーウで開かれ、ラーダ(評議会)においてグルシェスキーを議長に選出し、ラーダはグルシェスキーを大統領とするウクライナ自治共和国の成立を宣言します。11月20日、ラーダは自由選挙によるウクライナ憲法制定会議の招集を発表します。
これに対抗して、ロシア共産党政府はハリキウ(Kharkiv)にウクライナ・ロシア政府をつくります。1918年1月にラーダは重ねて「自由と主権」をもつウクライナ共和国を宣言します。1918年11月には、リビュでは武装したウクライナ人が西ウクライナ共和国の独立を宣言します。しかし、ポーランド軍がリビュを陥れたので、この共和国はスタニスラフ(Stanislav)へ撤退します。1919年1月、二つのウクライナの統一が宣言されます。しかし、赤軍は再度キーウを占領します。フリスチャン・ラコフスキー(Frischan Rakovsky)がキーウでウクライナ・ソビエト社会主義共和国政府を結成します。
1919年5月、東ガリツィア全域はポーランドに占領され、夏にはアントン・デニーキン(Anton Denikin)という白軍の司令官がモスクワへ進攻します。デニーキンはウクライナ・ポーランドの独立を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により白軍は撃破されます。その結果、赤軍がウクライナ全土を掌握します。