ウクライナの民族主義が文芸復興–ルネッサンス(Renaissance)により台頭します。ウクライナはロシアの一部族とか小さなロシア人(Little Russians)とみなされていました。ウクライナの良心を喚起したのは画家で詩人のタラス・シェヴェチェンコ(Taras Shevchenko)です。その詩の内容は、民謡のバラードやロマン主義的なコサックの栄光を謳ったものです。そして、ウクライナの自由で民主的な社会を求め、その後の政治思想に大きな影響をもたらしていきます。
1798年に、詩人・作家であるイヴァン・コトリャレーウシキー(Ivan Kotliarevsky)が、ウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩「エネイーダ」(Eheida)を刊行します。この書物は、近代ウクライナ文学の基盤となり、後に「ウクライナ学大事典」とも呼ばれていきます。1846年、ウクライナの愛国主義者がキーウで秘密結社、キュリロス・メトディオス協会(Brotherhood of Saints Cyril and Methodius)を結成します。その指導者は、歴史家のニコライ・コストマロフ(Nikolay Kostomarov)、パンテレイモン・クリッシュ(Pantelejmon Kulisch)やウクライナを代表する詩人で前述したタラス・シェフチンコらです。彼らは社会運動家で農民の啓蒙と革命運動への組織化を促進するナロードニキ(Narodniks)とも呼ばれました。
1861年、クリッシュやウラジミール・アントノビッチ(Vladimir Antonovich)は、ペテルブルグ(St. Petersburg)でウクライナ語の定期刊行誌「オスノバ」(Osnova)を発刊します。オスノバとは「出発」という意味です。1863年には、ロシア王朝内務大臣のピョートル・ヴァルフ(Pyotr Valuev)は、ウクライナ語の出版物や演劇活動などを禁止します。学校教育でもウクライナ語の使用は禁止となります。しかし、農民の間における運動や1853年のクリミア戦争の敗北により、ロシアの影響が弱体化します。それでも農民からの土地略奪や過重な賦役は、農民を苦しめます。