2012年のドイツ(Germany)・ルクセンブルク(Luxemburg)・フランス(France)合作の伝記ドラマ映画【ハンナ・アーレント】 (Hannah Arendt) を紹介します。ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家であったハンナ・アーレントの思想や伝記を描いた作品です。私はユダヤの歴史に興味がありましたので、この映画を神田の岩波ホールで観ました。以下、映画の要旨です。
ハンナ・アーレントはかつてドイツに生まれ育ちます。ナチスが政権を獲得しユダヤ人迫害が起こる中、フランスに亡命しシオニズム (Zionism)の政治思想家ブルーメンフェルト(Kurt Blumenfeld) に導かれ、反ユダヤ主義の資料収集やドイツから他国へ亡命する人の援助活動に従事します。親独のヴィシー政権(Régime de Vichy)によって抑留されますが、間一髪で脱走し米国に亡命します。その後、ニューヨーク大学(New York University) 教授として、夫ハインリッヒ(Heinrich)や友人で作家のメアリー・マッカーシー(Mary McCathy)らと穏やかな日を送っていました。
1960年5月に、ブエノスアイレス(Buenos Aires)で亡命生活をしていたナチス(Nazis) の元高官アイヒマン(Adolf Eichmann)がイスラエル(Israel) の諜報特務庁、モサド(Mossad)によって誘拐され、エルサレム(Jerusalem)で裁判を受けることとなります、ハンナはニューヨーカー誌(The New Yorker)の特派員として、裁判を傍聴することになります。
ユダヤ人として、ナチスの被害者の1人として傍聴した裁判でしたが、アーレントは被告アイヒマンが大量殺人を指揮したとは思えぬ凡庸さに当惑するのです。他方で裁判での証言から、当時のユダヤ人社会の指導者たちが、消極的にではあったのですが、ナチの政策に協力していたことまで明らかになってゆきます。イスラエルから帰国したアーレントは、『イエルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)を発表します。膨大な裁判資料と向き合いながら、鬼畜のようなナチ高官と思われていたアイヒマンは、自らの役職を忠実に果たしたに過ぎない小役人であると断定します。同時に、ユダヤ人社会でも抵抗をあきらめたことでホロコースト(Holocaust)の被害を拡大したこと、アイヒマンの行為は非難されるべきだが、そもそもアイヒマンを裁く刑法的な根拠は存在しないこと等をニューヨーカーの記事として掲載するのです。この報告は、大論争を巻き起こしアーレントへの批判が向けられます。
アーレントの記事はユダヤ人社会の感情的な反発を招き、彼女の著作を知らぬ者も「ナチスを擁護するものだ」と激烈な批判を浴びせます。アーレントは大学から辞職勧告まで受けるのです。誤解を解き、自説を明らかにするため、ハンナは特別講義を行います。「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ。」講義は学生たちの熱狂的な支持を得るのですが、他方で、古い友人のハンス・ヨナス(Hans Jonas) は彼女に背を向け、教室を後にするのです。
アーレントは記事の中で、イスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げかけます。その上で、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、ごく普通の小心者でとるに足らない軍人に過ぎなかったと描きます。