ヨーロッパの小国の旅 その五十二 バチカンとファッシスト

Benito Mussolini

バチカンは第二次世界大戦においてどのような政治的なスタンスを持っていたのがきになります。1922年に政権獲得のクーデターによりファシスト党(Fascist)のベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)がイタリア王国の指導者につきます。国王エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)はムッソリーニを首相に指名します。ムッソリーニは権力の集中をはかり、ファシズムによる独裁体制を確立させていきます。

当時のイタリアでは、反ファシズム運動(anti-fascism)は弱体で、かつ分裂し、しかも公の運動はできず新聞やラジオでの報道も禁止されていました。共産主義者は反ファシズム運動に最も積極的で地下組織をつくり、ロシアの支援や金銭を受けていました。しかし、たった7,000人位の党員であり、イタリア全土に反ファシズム運動のプロパガンダを広めるには不十分でした。運動員の中にスパイもいて地下組織を密告する者もいました。新しい反ファシズム組織も時に結成されますが、ファッシスト政権下の秘密警察がそれを弾圧します。

共産主義者の他に、1929年に「正義と自由」(Justice and Freedom)という共和・民主社会主義者の秘密組織が結成されます。それを主導したのはロッセーリ(Carlo Rosselli)です。ロッセーリはやがて、人民共和党軍(People’s Republican Army)を結成します。そしてイタリア国内のみならずフランスやスイスからの支援を受けることになります。

主要な反ファシスト者は投獄されたり、自宅軟禁され、遠隔の島に追いやられ、外国に亡命してイタリアの運動者と接触ができませんでした。ムッソリーニはストライキを禁止し取締りを強化していきます。労働組合との闘争で勝利した企業家には多額の税が課せられます。その他、ファッシスト党の支配下で社会福祉的な企業は営利を認められていました。

ファシズムから中立の立場をとっていたのがローマカトリック教会(Roman Catholic Church)です。ムッソリーニが台頭してきた初期には、カトリック教会はムッソリーニ政権を暗に支持していました。1929年にカトリック教会は、ムッソリーニ政権との間でラテラン条約(Lateran Treaty)を結びます。それによってムッソリーニは「ローマ問題」(Roman Question)に終止符をうち、バチカン市国の独立を認めるのです。ムッソリーニはローマ教皇に、1870年以前から支配してきた島々への多額の補償を行い、イタリア国内での特権を与えていきます。教会での結婚の証明、市民権法、宗教教育と小中学校の設立、カトリック教会団体の自由な活動などです。

誰がために鐘は鳴る

しかし、ムッソリーニは次第にカトリック教会の動きを反ファシズム的と警戒していきます。1931年には躍動していたカトリック教会の青少年組織を封鎖します。それまであったファッシスト政権主導の青少年組織と競合し始めたからです。1930年代に入ると反ファシズム運動は次第に弾圧されていきます。ムッソリーニは、イデオロギーとして協調していた盟邦であったスペインのフランコ政権(Francisco Franco)を応援します。フランコは1936年から1939年までのスペイン内戦(Spanish Civil War) を指揮していました。ムッソリーニはフランコに義勇兵、飛行機、艦艇を提供します。バチカンはファシスト党とは絶えず中立的な立場を維持していきます。