ヨーロッパの小国の旅 その三十九 オランダ東インド会社と日本

リーフデ号(De Liefde)は1600年4月、九州の豊後に来航します。といってもようやく辿り着いた航海だったようです。同船を含む5隻の船はマフ船団と呼ばれたようです。司令官はヤックス・マフ(Yax Muff)という人の名をとっていました。船団は1598年6月ロッテルダム(Rotterdam)を出航したのち、大西洋を南下し、南米最南端の難所マゼラン海峡をとおり太平洋へはいります。リーフデ号には後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)やウイリアム・アダムス(William Adams)乗り組んでいました。ヨーステンは「八重洲」という地名の語源となった人物で、アダムスは後に三浦按針と名乗ります。

リーフデ号

なぜ、オランダの商船が日本を目指してきたかということです。16世紀後半、オランダはスペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていて貿易制限、船舶拿捕などによって経済的に打撃を受けていたといわれます。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルは1580年にスペインに併合され、オランダはリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。そのため、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインに併合されていたポルトガルに対抗する必要がありました。こうして、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて東南アジアにあらわれるようになります。

八重洲にあるヤン・ヨーステン記念碑

イギリスやポルトガルが、東南アジアとの取引を本格化させるとともに、香辛料購入価格が高騰していきます。商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落していきます。ホラント州(Holland)のオルデンバルネフェルト(Johan Oldenbarnevelt)というやがて共和国の宰相となる政治家が中小の貿易会社を統一しオランダ東インド会社(Holland East India Company)を発足させ、諸外国に対抗しようとします。これが1602年3月の東インド会社の設立です。通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)といわれました。

臼杵市のリーフデわんぱーく公園

東インド会社は、世界初の株式会社といわれます。本社はアムステルダム(Amsterdam)に設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、やがてジャワや平戸などに置かれます。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた専売会社です。アジアでにおける帝国主義は植民地政策であり、その前身となる組織です。オランダは長くインドネシアを植民地とします。戦時中、日本がインドネシアを占領したことは、オランダからの独立を促す契機ともなったといわれます。インドネシア独立戦争は、1945年から1949年まで続きます。