1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。
しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。
戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。
1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。
戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。