ドルと沖縄と留学

Last Updated on 2025年3月18日 by 成田滋

始めて沖縄に行ったのは1970年。本土復帰の2年前です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を設置する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要。1ドルが360円のときでした。

 当時、琉球政府のお役人とで何度も幼稚園設置のための打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれて、認可にこぎ着けることができました。1972年に本土復帰を果たすのですが、このときは1ドルが300円となりました。

 園児を募集すると障がいのある2人の幼児が保護者に連れられてやってきました。この2人を担当するのが私の仕事ともなりました。みよう見真似で懸命に指導したのですが、やがてもっと障がい児教育を学ぶ必要を感じてきました。

 ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアン(rotarian)と呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において人々の生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することが求められています。

 沖縄には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会いました。この方は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な戦争で九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして40年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員です。

 那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。それと共に沖縄駐留米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。ようやく1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレミヨンの部厚いステーキが5〜6ドルくらいで、2,000円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに3,000円、4,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍、3倍に上がりました。

 沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな制度、人と物がやってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、国家権力がいかに強大かを思い知らされることになりました。

 ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。通常買い物で100ドル札を出す人はいません。皆小切手を使います。彼女は偽札を心配したのです。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。

 アメリカでの留学が長くなり7年近く過ごました。その時の円相場は1ドル200円前後で、授業料の支払いなどでわずかの円預金では大変な時代でした。私も家内もアルバイトで懸命に働きました。このような留学経験は、通貨の価値とか為替相場ということを知る機会となりました。

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