留学でお世話になった人

Last Updated on 2025年1月6日 by 成田滋

ある雑誌で、日本美術史家の堀尾真紀子氏と旭川大学大学院教授の梅谷俊一郎氏という方のエッセイを拝読しました。特に、梅谷氏の「あるフルブライターの個人的事情ーA氏のこと」は興味深く感じました。昔、忠告してくれたA氏のことがずっと心の隅に残り、50年振りで再会できたという内容でした。今、梅谷氏は北海道の旭川の郊外で引退生活をされているようですが、私も道立旭川西高校の卒業生でなんとなく懐かしさがよみがえります。

それはともあれ、フルブライト奨学金により留学を支えてくれた人がいて今があるという梅谷氏の言葉は、私にも全く同じことがいえるのです。私は那覇市内でルーテル教会の支援を受けて幼児教育を始めたところでした。園児の中に発達障害の子供が二人いました。指導の仕方を求めて本をあさりましたが、もっとこの分野の勉強をアメリカの大学でしたいという衝動に駆られました。国際ロータリークラブが特殊教育の分野で奨学生を募集していることを知りました。当時は特別支援教育という名称はありませんでした。那覇東ロータリークラブの財団委員をされていた國吉昇氏に相談いたしました。そして1976年に那覇東ロータリークラブから推薦を受けて、国際ロータリークラブから一年間の奨学金を得ることができ家族とウィスコンシン州のマディソンへまいりました。

國吉昇氏は戦時中、戦時中の沖縄戦で生き残られたお一人です。当時那覇気象台に勤められていて、戦況が悪化するとともに南部の島尻村摩文仁に逃避されたようです。途中銃弾を受けて収容され終戦を迎えます。戦後は沖縄ナショナル特機という会社を興され、那覇東ロータリークラブを組織されます。ロータリークラブは毎週例会を開いては情報を交換したり、会員の親交を深めています。私もこの会合に招かれ、なぜアメリカで勉強したいのかを話す機会が与えられました。国吉氏の後押しがあってのことです。幼稚園を辞してアメリカに出発するとき、國吉氏は私に100ドル紙幣の餞別をくださいました。そして、勉強が済んだら沖縄に戻り幼児教育に貢献して欲しいとも言われました。

アメリカ滞在は6年あまりに及び、学位を貰い仕事探しを始めました。すでに那覇の幼稚園は閉鎖していました。特殊教育の教師養成に関わりたいと考えて國吉昇氏と相談しようと思いましたが、再び氏にお世話になるのはためらいました。幸い、知人に三鷹にあるアメリカンスクールの副校長であったルーテル教会のジェームス・ウィズイ宣教師がおられました。彼は日本スタンフォード協会の会合である会員と会います。それが当時、横須賀にあった国立特殊教育総合研究所の部長でした。お二人ともスタンフォード大学の同窓生でした。ウィズイ師のお陰で研究所での仕事が与えられることになりした。

沖縄で特別支援教育の仕事をすることは叶いませんでしたが、横須賀で特別支援教育の研究と教育の仕事を10年間し、その後兵庫教育大学へと転出し2008年に定年を迎えました。その間、國吉昇氏とは連絡だけは取り続けました。一度だけですが、子どもを連れて那覇を訪れ国吉氏やロータリークラブの会員と会うことができました。2021年の1月に再度那覇を訪れ、介護老人ホームで暮らす國吉ご夫妻と再会できました。

アメリカ大使館主催College Fairでウィスコンシン大学を紹介する

國吉昇氏は1966年1月に那覇東ロータリークラブを組織して以来、毎週欠かさず地元や出張先のクラブの会合に出席されている希有の記録をお持ちです。なおジェームス・ウィズイ師は一昨年、脳腫瘍のためにお亡くなりになりました。アメリカではご家族とも何度もお会いしました。ロータリークラブも大学の同窓会も、世界と人々に奉仕する精神を強調しています。私も所属する会員の方々からその果実を頂いた一人であります。

2024年12月に國吉昇氏のご長男という方から手紙を頂戴しました。ご両親がお亡くなりになられたという内容でした。ご長男には、私の沖縄時代に那覇東ロータリークラブで國吉氏と出会った経緯をお伝えし、その手記をお送りしました。國吉氏の暖かい支援と励ましが今も心の隅に残ります。

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