成田一家の樺太時代とロシア軍事侵攻

Last Updated on 2025年3月14日 by 成田滋

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻、難民や犠牲となっている人々の姿を見ながら、成田一家の樺太時代を振り返っています。

 1945年8月に遡ります。私の父、成田健蔵は樺太庁のあった豊原市、現在のユジノサハリンスクの駅の助役をし、母キミノの弟、吉田清一は日本軍の歩兵師団小隊長として、国境線に近い古屯町辺りに配属されていました。8月20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、退却しながら小隊を解散し、途中で農民服に着替えて自由行動をとり豊原に戻ります。後に、清一はソ連の強力な兵器にはとても適わないと述懐していました。

ソ連の樺太侵

 当時、樺太には40万人以上の日本の民間人が居住していました。8月20日には、樺太西海岸の拠点である真岡町にソ連軍が上陸します。その後、女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件も起こります。内地への引き揚げ命令が出た8月22日、ソ連軍は豊原を爆撃します。ソ連軍の侵攻後に北海道方面への緊急疎開が始まります。私の家族は父を除き、母親が私を含む3人の子どもを連れて8月22日に緊急疎開船3隻の1隻である小笠原丸に乗船し稚内で下船します。美幌にいた親戚を頼るためです。その後、小笠原丸は小樽に向かう途中、留萌沖付近でもう1隻の疎開船とともに国籍不明の潜水艦によって撃沈されます。

 次ぎに、樺太の大泊から発進したソ連軍は、8月28日に千島列島の占領作戦を開始し、9月3日までに北方四島を占領します。樺太や四島で捕虜となった大半の日本兵は、樺太を経由してシベリアへと送られます。私の父も拘束されますが、助役をやっていたので豊原の缶詰工場で働かされます。叔父も民間人に変装し製紙工場で働き、シベリヤ行きとはなりませんでした。

ソ連兵の進駐

 父の弟、私のもう一人の叔父のことです。私は名前を覚えておりません。彼は樺太の何処かの前線でソ連軍に投降しシベリア行きとなったようでした。兵隊はソビエト体制への敵対者として扱われ、捕虜になると必ずシベリア行きです。独ソ戦で捕虜になったドイツ人兵やイタリア兵がシベリアに送られたのと同じです。

 叔父の消息が分かったのは1955年頃です。厚生省引揚援護局から、シベリア中部の都市、クラスノヤルスクで死亡という通知が届きました。クラスノヤルスクは、首都モスクワから4,000キロも離れたバイカル湖に近いところにある大きな街です。クラスノヤルスクは、ロシアの帝政時代には政治犯らの流刑地で、スターリン体制下でも強制労働収容所(ラーゲリ)の中心地となります。Wikipediaによりますと、戦時中、ドイツ軍の攻撃にさらされた西部ロシアやウクライナから多数の工場がクラスノヤルスクとその周辺へ疎開し、これにより重工業は非常に活発になります。捕虜は貴重な労働力となったはずです。叔父がクラスノヤルスクで死んだのが本当ならば、彼も政治犯や捕虜と一緒に鉄道や工場の建設作業に従事させられたはずです。

 父はしばらく弟の死亡通知を疑問視していました。そして、地元のロシア女性と結婚したのではないか等とも語っていました。この時、私は家族がどこかで死んだときかされると、なにか別の空想をするものなのかと思いました。私の両親は八王子の館町でそれぞれ96歳、94歳まで存命しました。叔父の清一は、戦後は農林省で働き、八王子の北野と西東京で生活し86歳まで生きました。この3人から終戦当時の詳しい事情をきいていたので、それを日記に書き留めてありました。まだまだ書きたいことが山ほどあります。

 最後に、捕虜になったウクライナ兵や避難民はシベリヤかサハリン(樺太) 行きでしょうか。難民となって引き裂かれた家族は自らの生活不安のなかで、夫や兄弟の安否を祈るのだろうと察します。 (2022年3月15日) 

参考記事 ロシアとウクライナについてエッセイです。 
・映画「ひまわり」とウクライナ
・ウクライナ歌曲「」また秋が来て」 
・ウクライナ人と白系ロシア人のこと

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