「棄民」と奥多摩

Last Updated on 2025年3月2日 by 成田滋

奥多摩三山の一つ、標高1,405m の御前山に友人等とで出掛けたことがあります。途中、奥多摩湖を眼下に眺めながら登るのですが、結構きつい山です。奥多摩湖は、私にとって北海道での学生時代の思い出となるところです。それは小河内ダムの建設にまつわる小説、「日蔭の村」を読んだことがあるからです。作者は石川達三です。真っ青な湖を見ながら、小説の舞台となったのがこの湖の底であることを思い出しました。

 東京市へ水道供給のため貯水池を建設するという計画が昭和6年に持ち上がります。小河内村民は、立ち退きの補償費をあてにし、湖底に沈むというので村民は農作業もやらなくなります。補償交渉は難航し代替地での新しい生活も不透明なままです。小作や自作の零細農家は娘を売りとばさねばならないような、まるで江戸時代の貧農村のような姿です。開発業者に足元を見すかされ、村民にはきわめて低い補償金しか与えられなかったようです。中には遠くは満蒙開拓団、あるいは八ヶ岳山麓の開拓団として離散していく者もでます。

 ダム建設工事は昭和13 年に始まりますが、昭和18 年に戦況の悪化で中断し、昭和23年に工事が再開されます。そして昭和32 年にようやく完成したのが小河内ダムです。ダムでせき止められた小河内貯水池は奥多摩湖と命名されます。湖底に沈んだのは945 戸の家々や神社、学校などです。都会文明に翻弄された一村落の哀史です。巨大なダムの歩道の近くに「慰霊碑」があります。工事中の事故で亡くなった87 名の殉職者の名前が刻まれています。その中には朝鮮人名も見えます。

 日本の地方の歴史でこのような開拓事例は多くあります。国の方針に従わざるを得なかった庶民の苦悩と対立です。小河内ダムの建設と同じく、各地におけるダム建設をめぐる経過は、非常に似通っています。住民が政治に翻弄されてきた群馬県の八ッ場ダム計画もそうです。昭和27 年計画は発表されると、水没地に住む住民は犠牲になることには断固反対し、町全体を巻き込んだ長期にわたる運動が展開されました。そして、実に70 年が経つ令和2年に完成しました。川原湯温泉街を始め340 世帯が完全に水没していきます。八ッ場ダムの完成後、川原湯温泉は復活します。

蒼氓

 石川達三が「日蔭の村」を発表したのは昭和23 年ですが、この小説には下敷きとなった作品があります。昭和14 年に石川は自分のブラジル移民体験を描いた「蒼氓」(そうぼう)を発表しています。「氓」とは、漢字のとおり棄てられ亡くなった民という意味です。国の移民政策で外国に移住する人々の悲しい現実を石川は描いています。

 国内の食料難から国から奨励され、昭和11 年から始まった国策移民という満蒙開拓団もそうです。中国東北地方への農業移民です。移民を集めるために各地で村を挙げて送り出す「分村」や、複数の村が送り出す「分郷」開拓団が組織されました。14、15歳の青少年義勇軍も8万人近く送出されます。あわせて27 万人が北満州の開拓にかり出されます。日本の戦況悪化やソ連軍侵攻により、軍に見捨てられ国によって置き去りにされた人々が「棄民」です。

 2017 年8 月14 日にNHK から「樺太地上戦–終戦後7 日間の悲劇」という番組が再放送されました。多くの民間人が犠牲になったなかで、辛くも脱出して助かった我が家のことを振り返りながらこの番組を見ました。「棄民」は私にとっても他人事はありません。(2017 年8 月30 日)

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