「パソコンに火を入れる」

Last Updated on 2025年3月8日 by 成田滋

パソコンを始めて見たのは、1978年である。それはウィスコンシン大学の計算機センターの隅にあった。授業のとき、教官がApple IIを持ち込み蓋を開けてなにやらつっ込んでいた。それが拡張メモリだったのは後で知った。

 その頃、パソコンを起動するとき、「パソコンに火を入れる」と言った者も大勢いた。今は「パソコンを起動する」が普通であろうが、「火を入れる」というフレーズは厳粛さがあり、「さあこれから仕事をしてもらおう」という神妙な態度と入魂さが感じられたものである。聖なる趣さえある。それが今はどうだ。「パソコンを立ち上げる」になってしまった。なんとも味気ない。画面には「スタート」という表示すらある。シャットダウンするのにも「スタート」ボタンを押さなければならない。実に不可解だ。これは言葉の乱れではないか。

 最近はなにがなんでも「立ち上げる」 だ。社会保障制度改革国民会議を立ち上げる、新党を立ち上げる、特別委員会を立ち上げる、新しいビジネスモデルを立ち上げる、、、枚挙にいとまがない。しかし、なんでも「立ち上げる」というフレーズですまされる表現にもの申したくなる。なんでもかんでも立ち上げるでは、魂が感じられない。なぜ、決意する、英断する、組織する、結成する、創業する、実験するなどの用語を使わないのか。

Apple II
新生党

 タケノコのような新党が続々生まれている。「新党さきがけ」などである。「○○政党を立ち上げる」のではなく「○○政党を打ち上げる」のほうがよいのではないか。「先行きどうなるかわからないが始めてみる」のである。なにかロケットの発射のようであるが、勇壮で頼もしさが感じられると思うのだが、、、、。(1994年10月1日)

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