Last Updated on 2025年6月11日 by 成田滋
ドイツ教会闘争(Kirchenkampf)とは、ドイツのプロテスタント教会(protestant church) が1933年から1945年に至るまで、ナチスが国民統制を強化する一環として教会の組織や教義への干渉に抗して行った闘争を言います。この運動は、単なる宗教的な争いではなく、政治的・倫理的な闘争でもありました。
闘争は、やがてナチスの非人道的政策そのものに対する批判にまで発展します。1933年に宰相に就任したヒトラーは、最初は教会に対して宥和的な態度を示しました。まもなくナチズムに迎合するドイツ・キリスト者(Deutsche Christen)を介して、教会への干渉を始めます。特にプロテスタント教会を国家に従属させようとするのです。ドイツ・キリスト者は、ナチズムの思想である民族主義、反ユダヤ主義をキリスト教と融合させようとする人々です。さらに「アーリア的キリスト教」(Aryan Christianity) を提唱し、旧約聖書の排除やユダヤ人イエス・キリストを否定するのです。
その干渉とは、それまでドイツ国内にある領邦教会を一元化して帝国教会を作り、その上に帝国監督を据えることを企ることでした。さらにユダヤ人排除政策であるアーリア条項(Aryan Clause)を教会関係の立法に導入しようとします。ニーメラーらは、告白教会というナチスの干渉に抵抗したプロテスタントの信徒や牧師のグループに所属していました。彼らは、帝国教会などの設立を教会秩序の破壊であると抗議し、牧師緊急同盟を組織し、多くの参加者を得て運動を開始します。やがて各領邦教会で勢力を持つドイツ・キリスト者に抗して告白会議が組織されます。
1934年5月にルール(Ruhr)地方の工業都市、バルメン(Barmen)で第一回告白教会全体会議が開かれ、有名なドイツ福音主義教会の現状に対する神学的宣言が採択されます。この宣言はバルメン宣言(Barmen Declaration)と呼ばれます。バルメン宣言の中心は、キリストは唯一の主であり、国家や指導者に絶対服従すべきではないとする立場です。バルメン宣言の代表的な人物はニーメラーの他に(Karl Barth) 、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)などの神学者でした。
社会情勢の深刻化にともない、告白教会内部における非妥協的な全国常任議員会と保守的な領邦教会の人々の対立が次第に深まっていきます。さらに、政府は告白教会に対しての弾圧の度を強め、1935年に教会省を設けて、教会問題に直接介入してきます。告白教会は当時のドイツにおける唯一の抵抗の拠点として、良心の声を上げ続けます。1936年頃からは、単にj純粋な教会問題だけでなく、ナチスによる人間的破壊の事実に対して抗議の声をあげます。
しかし、ニーメラーらの指導者をはじめ牧師や教会役員に対する逮捕投獄が相次ぎ、闘争は危機的状況に陥ります。ことに1939年の第二次対大戦の勃発により、組織的抵抗としての教会闘争は不可能になり、戦いは地下運動的なものに移行せざるをえなくなります。
ドイツ教会闘争が今日の世界へ及ぼしたと考えられる貢献です。まず、政教分離と信教の自由への警鐘ということです。教会が国家権力に取り込まれる危険性を示した事例として、現代の政教分離の重要性を強調する事例になっていることです。この闘争は、倫理的勇気と良心のモデルとして評価されています。ニーメラーやボンヘッファーのような人物は、今日においても良心に従って不正に立ち向かう道徳的模範とされています。特に全体主義や権威主義が台頭する現代において、個人が信念に基づいて行動する重要性を再確認させているのです。
もう一点は、ナチズムと宗教の関係に関する歴史的教訓ということです。宗教が国家権力に利用された結果、信仰が本来持つ倫理的・批判的な力を失う危険性が明らかになったことです。そのため、宗教界においても権力との距離や政治的関与についての慎重な議論が現在も続いています。
なによりも文化民族にとってふさわしからぬことは、抵抗することもなく、無責任にして盲目的衝動に駆り立てられた専制の徒に統治を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみな自らの政府を恥じているのではないか? (白薔薇は散らず)
