無関心や傍観の帰結 その九 「戦犯の実録 第二集 半生の悔悟」

Last Updated on 2025年6月17日 by 成田滋

中国人虐殺に日常的に加担した憲兵が「私の行った拷問の記憶が、今も体を硬直させる」と書いて半生の悔悟を証言しています。このことを報じたのは、「しんぶん赤旗日曜版(2025年6月) 」です。その記事を以下に要約します。

1983年に発行されたのが「戦犯の実録 第二集 半生の悔悟」という本です。著者は日本が中国に侵略した1931年、20歳で志願し中国に出兵します。軍人になることが極貧から抜け出す道だったからです。1934年から満州を侵略した関東軍憲兵隊の憲兵となり、出世のために手柄をたてようと中国人へに拷問に明け暮れます。12年間の憲兵生活で、中国人を28名を直接間接に虐殺し、1917人を逮捕して拷問、投獄したそうです。戦後はソ連軍に抑留され、戦犯管理所に収容されます。1956年の特別軍事法廷で罪を認め、恩情措置で起訴免除となって帰国します。

日中戦争 1937年〜1945年

「拷問の毎に中国人のあの苦しい叫びが今も耳朶をかすめ、自責の念に駆られている。「ああ苦しい、耐えきれない」、と呼吸も切り切れに泣き叫び、頭をガンガン板に打ち付けて命乞いする。それを私は、「何をこのチャンコロ虫けらが」、となお拷問を続けた。私の行った罪悪の事実を書いていると今も体が硬直してしまう。」

「殺すことが日常茶飯事だったことです」と証言しています。他の元戦犯たちの証言からも、各地で住民を殺し、村ごと焼き払い、財産も家畜も食糧も奪い尽くしたようです。こうした証言や手記を残すことになったのは、戦前戦中の徹底した天皇制軍国主義が下敷きであったことです。「子どもの白紙の頭にしっかりとウソが詰め込まれた。この皇国教育を受けて戦争に行き、残虐行為をくり返すに至った」と著者は書きます。このような加害者証言は貴重です。著者はさらに言います。「私が身をもって学んだことは、人を殺害してしまうのは、銃剣などの武器だけではないということである。間違った政治、その政治家達が作る法律や政策が、武器よりもはるかに多くの人たちを死に追い込んでしまうということである。」

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