琉球独立論と沖縄の本土復帰

Last Updated on 2025年3月2日 by 成田滋

筆者にとって1971年から1977年までの沖縄・那覇での生活は思い出に残るものです。米国の施政権や本土復帰運動の両方を目の当たりにし、小雨が降る1972年5月15日の本土復帰の時を経験しました。琉球独立と、本土復帰の二つの狭間に置かれた沖縄の人々の思いに触れることができたのは幸いでした。本稿では、いくつかのエピソードを記すことにします。

沖縄は「琉球」と呼ばれた時代が長く続きました。琉球という地名の由来は、島々が龍に似ていたのでつけられたという説、「沖縄」は沖合い(おき)の漁場(なは)から由来したという説です。私が沖縄で幼児教育を始めるようにとの指示で沖縄へ派遣された1971年は、まだ琉球であり琉球民政府が統治していました。

現在の沖縄県は、かつては琉球王朝と呼ばれた一つの独立国でした。1429年に中山王の尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を創設します。琉球王国は、明と清の冊封使を受け入れながら、上手に独立を保っていました。やがて清が衰退し、薩摩や明治政府の影響を受けます。

独立国であった琉球王国は三度潰えていく経緯を辿ります。第一は1872年に明治政府によって琉球藩が設置され,その後琉球藩を廃して沖縄県を設置したいわゆる琉球処分、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の沖縄返還、いわゆる本土復帰です。

1952年に琉球政府が創設されます。長である行政主席は民政府によって任命されます。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官のフェルディアント・アンガーの赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされます。平良師は祈ります。「神よ、沖縄にはあなたのひとり子、イエスキリストが命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をして、これら市民の人権の尊厳の前に深く頭(こうべ)を垂れさせてください。」 この勇気ある祈りは、今も語り草となっています。

平良牧師は、東京神学大学と米国のジョージ・ピーボディ大学を卒業し、沖縄キリスト教短期大学長などを歴任し,日本基督教団佐敷教会を牧会します。米国留学中に黒人公民権運動に接しその影響を受けたということが、彼の私記にあります。アンガーは1968年に行政主席を公選とすることを発表します。その主席選挙よって当選したのが沖縄教職員会長などを務めていた屋良朝苗です。後に彼は初代の沖縄県知事となります。

1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期でありました。琉球からB52をはじめとする爆撃機や戦闘部隊、兵站物資が送られます。その間、ヴェトナム戦争に荒んだ米軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本土復帰の運動が広まります。1970年12月のコザ暴動はその典型で、米国兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ち事件です。その背景に米施政権下での圧制や人権侵害に対する沖縄人の大きな不満がありました。

「沖縄独立論」についてです。琉球・沖縄の独自性を沖縄の人々に再認識させようとした運動の思想が独立論です。琉球王国時代の豊かな文化や芸術、土着の宗教や言語などに独立論の起源があると考えられます。南方との交易によって琉球にはいろいろな文化がもたらされました。特に最大の交易相手だった中国の影響を強く受けました。琉歌や組踊りも独特です。他方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用いていました。しかし、本土復帰と琉球の独立は相反する精神の葛藤であることがやがて鮮明化していきます。

琉球の独自性は、地元の学者やジャーナリストによって研究されてきます。「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷(いはふゆう)の沖縄研究は、沖縄の言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡ります。伊波の後継者といわれたのが外間守善で、生涯を琉球文学や文化研究に捧げます。比嘉春潮もまた沖縄史の研究者であり沖縄の独立を主張した社会運動家でした。仲宗根政善はひめゆり学徒隊の引率教官で、戦後は琉球方言の研究や沖縄の教育行政にあたります。「琉球王朝史」の著者で民俗学者であった川平朝申も琉球・沖縄の独自性を叫んでいた一人です。

川平を含む勇気ある祈りを唱えた平良牧師ら多くの知識人は、当初は米国の施政権下からの脱却を目指していました。本土復帰が決まるとことによって琉球は沖縄県となり、日本への統合が始まります。最終的に「沖縄」が選ばれたのは、中国由来の地名である「琉球」を県名にすることを嫌ったためではないかと考えられています。復帰とともに、本土からヒト、モノ、カネ、そして制度が怒とうのように押し寄せ、日本政府という権力の凄さ、恐ろしさが県民によって理解され始めます。それと同時に沖縄民族(ウチナンチュ)の独自性や精神、文化が揺らぐことの危機意識が高まり、「反復帰」の声が地元の新聞論調にみられるようになります。

復帰後、「本土復帰は幻想ではなかったのか」と反芻するような声が起こります。だが時は既に遅し。「反復帰」の精神は運動として高まることはありませんでした。沖縄の一部の人々でありましたが、唯一日本からの独立という途方もない発想をした沖縄人に、私は今も畏敬の念を抱く一人であります。 (2022年5月8日)

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