日本にやって来て活躍した外国人 その三十八 ヴェンセスラウ・デ・モラエス

Last Updated on 2020年8月29日 by 成田滋

ポルトガル人(Portugue)の外交官、海軍軍人、文筆家だったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa de Moraes)の日本での活躍です。日本では余り知られていない文筆家ですが、意外と彼の著作はポルトガルでは関心を呼んだようです。1854年、モラエスはポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれます。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官となります。ポルトガル領だったマカオの港務局副司令を経て1889年に来日します。

Wenceslau Jose de Sousa de Moraes

1899年に日本に初めて神戸にポルトガル領事館が開設されると同副領事として赴任し、後に総領事となり1913年まで勤めます。モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネと出会い、ともに暮らすようになります。しかし1912年にヨネが死没すると、総領事の職を辞任してヨネの故郷である徳島市に移住します。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのですが、彼女にも先立たれてしまいます。

『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されています。すべてポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかったようです。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになります。

「緑、緑、緑一色!…」。モラエスは徳島の最初の印象を作品「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に書いています。ですがモラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかったようです。身長180cm以上で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたようです。ドイツのスパイと疑われたり「西洋乞食」と蔑まれたりすることもあったといわれます。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルトガル北部の港湾都市ポルト市(Porto)の著名な商業新聞に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介します。それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行されます。ポルトガルにて、東洋の国、日本への関心を高めて話題となったといわれます。