Last Updated on 2025年1月15日 by 成田滋
日本の学校に学年制がいつから敷かれたのは存じません。多分明治時代からでしょうが、年令とともに学年がぴったりと子どもに張り付き、それが高校まで続く制度です。この上ない便利といえば便利な仕組みです。特に行政にある者にはそうです。単純な仕組みなのでなにも考える必要はなく、子どもを受け入れそして押し出していけばいいのです。
わたしの3人の子どもはアメリカはウィスコンシン州の幼稚園から大学まで学びました。最初は英語力がなかったので、学年とは別に英語のクラスでほとんどの時間を過ごしました。これは習熟度や特別なニーズにそったクラス分けです。学年途中で上の学年の単元へ進む子もいます。学年制にはこだわらないという伝統は、集団よりも個人の能力を重んじることに由来しています。
私の友人の一人、Dr. Del Harnisch氏はネブラスカ州の超田舎で育ちました。子どもが少なく、小学校と中学校は複式だったそうです。学校内ではほとんどがグループでの学習で、学年はあってなかったようなものだと言っていました。その後イリノイ大学とネブラスカ大学の教授となりました。兵庫教育大学に3か月招聘したこともありましたが、数年前に他界しました。
個人の能力を重んじる伝統は、短い歴史の中ではありますが、試行錯誤され定着しました。今も指導のあり方は改善の努力が続いています。たとえば生徒が生徒教えるPeer Tutoring, 単元毎に指導が進められるModular Scheduling, 飛び級であるGrade-Skippingなどです。
アメリカは読字や書字の困難とか発達障がいについても、広く一般に認識されているために、日本に比べて偏見は少ない社会です。そうした障がいを示していても特定の分野で秀でているとか仕事のスキルが高いと就職できるのです。健常や障がいの境目や隔たりが曖昧なのがアメリカ社会といえるでしょう。障がいの認定によって、受けられる教育サービスが充実するので、認定は大いに結構であると考えるのです。