Last Updated on 2025年6月6日 by 成田滋
「ポリティカル・コレクトネス(political correctness: PC)」、略して「ポリコレ」という用語は、歴史的にも社会的にも多面的な背景を持っており、単に「リベラルな言葉や行動」を表すラベルではありません。以下では、その由来や展開、批判、そして現代的な使われ方について詳しく説明します。
以下、「ポリティカル・コレクトネス」をPCと記述します。PCとは、人種、性別、宗教、障害、性的指向などに関する差別や偏見を避け、すべての人に対して尊重と配慮を持った言葉や態度をとることを意味します。つまり、他人を不快にさせたり、傷つけたりしないように、より中立で配慮のある言い方を心がける社会的姿勢です。
PCという用語の起源です。20世紀初頭、ソ連邦やマルクス主義運動の内部で、「政治的に正しい(politically correct)」という表現は、党のイデオロギーに忠実であるかを問う意味合いで使われました。つまり、「党にとって正しい態度や発言をしているか」という意味です。皮肉や批判の意味は強くなく、むしろ「正統性」を示すものです。
アメリカでは、1980年代以降、特にアメリカの大学キャンパスなどで、差別や偏見のない表現や態度を推奨する動きが強まり、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がリベラルな価値観と結びついて用いられるようになりました。その例は、人種・性別・性的指向・身体的障害などに配慮した言葉の使用があります。例えば、”fireman” → “firefighter”、”stewardess” → “cabin attendant”、”カメラマン” → “フォトグラファー”という按配です。
次にPCには、批判や反発が存在します。言論の自由の抑圧であるとして、PCを過度に追求することで、自由な意見表明が難しくなるという懸念です。その例は、冗談や風刺も差別とされ、自己抑制 (self-censorshipが広がるという指摘です。
さらにPCには偽善的であり形式的な配慮があると指摘されています。実質的な平等や社会改革よりも、表面的な言葉遣いにこだわり過ぎるという批判です。単に「言い換え」をすることで社会問題を解決したかのように見せてしまうのです。さらに、逆差別や過剰な被害者意識を助長しているという批判もあります。PCが行き過ぎると、マジョリティに対する抑圧や皮肉な差別が起きる、という保守派の主張もあります。その例は、「白人男性」、「金髪女性」という属性だけで偏見の対象にされる場合などです。
PCは、リベラルのラベルなのかという問いがあります。 PCは本来、社会的に弱い立場にある人々への配慮として始まったもので、リベラルな政治哲学である多様性尊重、平等、包摂(diversity, equity, inclusion: DEI)と親和性があります。ただし、現代ではそのリベラル性自体が問題視されたり、アイロニカルに使われることも多いのも事実です。1990年代以降、保守派の政治家や評論家が、PCを「過剰な正義感」や「左派の言葉狩り」として揶揄する文脈で使うようになりました。皮肉や批判的用法として定着しています。たとえば、「それはポリコレのせいで言えないんだよ」という言い回しには、PCの抑圧的側面への不満がこもっています。
今やPCは単なる言葉遣いの問題を超えて、「文化戦争(culture wars)」の象徴的な争点にもなっています。左派(リベラル)にとっては、PCは社会正義のために必要な倫理的配慮があるとし、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策、または対策などを表すことだと主張します。他方右派(保守)にとっては、PCは自由な議論を妨げる魔女狩りのような検閲文化の一部であるというのです。現代におけるこの言葉の議論は、学術界や教育界におけるリベラルな偏見を前提とした保守派の批判に端を発しています。
