Last Updated on 2025年3月15日 by 成田滋
我が国では子どもが学校へ行くのは当たり前だと誰もが思っています。「学校へ行かないのは駄目だ」、「学校へ行かないと学力がつかない」、「学校でしか集団生活の決まりが学べない」などといった間違った考えの人々が世間に多いのが現実です。しかし、子どもが学ぶ場所は学校だけなのか、という問いが生まれます。
「ホームスクール」(home schooling)とは、学校に通わずに家庭で学習を行う教育方法のことです。オルタナティブ教育(alternative education)の一種で、ホームエデュケーション(家庭ベース教育)とも呼ばれます。現在、不登校とか登校拒否と呼ばれる子どもが大勢います。こうした子どもの中には、学校が嫌だからではなく、親元の自宅で勉強したい子どももいます。
以前驚いたことがあります。新学期の9月からホームスクールをやるというのです。息子達が学校の勉強が退屈だというからだそうです。長男夫婦は学校に対して、もっと習熟度にあった指導をして欲しいと申し入れたそうですが、学校の事情でそれが受け入れて貰えなかったようです。親の要望が満たされないのは、学校区の予算にあるとのことでした。飛び級も申し出たようですが、それも叶わなかったといっています。そんな事情で結局選んだのはホームスクールです。
長男夫婦は働いています。「一体誰が家で指導するのか」と尋ねますと、長男自身がするというのです。幸い大学の授業をすべて午後に回してもらえることになったようです。午前中は、バイオリン、ピアノを指導しながら教科を教えます。そして午後大学に一緒に出掛けるのだそうです。嫁のケイトは小学校の教師。午後4時に大学で立ち寄り息子を連れて帰宅。長男も午後6時には帰宅するようです。
田舎の学校区は概して予算が少ないのです。ですから保護者や生徒の要望を十分に聞き入れることができない苦労があります。留年というのは、年令にそった基礎学力がつくまで進級しないことです。マディソンの学校には、生徒の留年はもちろん、飛び級までいろいろです。高校生になると飛び級の先は、もちろんウィスコンシン大学となります。
かつて私の次女もウィスコンシン州のマディソンで、2人の娘を自分で教育する「ホームスクール」やりました。娘たちは学校嫌いとか心理的な理由での登校拒否ではありません。次女は自分で指導して育てたくなったのだそうです。旦那の理解と協力もありました。彼女の娘たちが本来なら毎日通える小学校は家から1分の所にあります。目の前にある学校なのです。体育や音楽は学校でやらせ、その他の教科は彼女が指導していました。
「ホームスクール」はアメリカのどの州でも法律で認められています。公教育とは違った教育の形態をオータナティブスクール(alternative schooling)といいます。通常の学校を選ぶのもよし、州認定のチャータースクール(chartered school)に通わせるのもよし、ホームスクールでもよし、保護者が自分で子どもの学習の場を決めれるのが、アメリカの教育制度の面白いとこです。
アメリカで「ホームスクール」が認められるのいくつかの背景があります。第1は宗教の影響を受けていることです。宗教的な信念や信条が基礎にあって、信仰心を大事にしながら基礎学力をつけ、一人ひとりの子どもの特性を伸ばそうとするのです。特にクエーカーやアーミッシュと呼ばれる宗派の人々はそうです。第2は公教育への不信感のようなものです。特に公立学校の一斉指導や競争的な学習環境、児童生徒の問題行動などに嫌気をさす保護者がいるのです。第3は自分が子どもの教育を担うのは当然であるという確信のようなものです。保護者には高い教育を受けている者が多いといわれています。
大きな町にはホームスクールを実践する親のグループがあって、定期的に保護者と子どもが集まって学び、遊んでいるそうです。こうした集いをとおして教材や指導方法、困ったことなどを相談しあっています。ホームスクールで学ぶ子どもは、州が決めた学力テストを受けると卒業資格が得られます。アメリカには、「ホームスクール」はしっかりと定着しています。
我が国では、不登校の子どもが学ぶ民間の「フリースクール」が各地にあります。フリーとは授業料が無料という意味ではありません。「いじめがある、学校がにがて、環境になじめない、少人数で学習したい、家庭の事情で学校にいけない」等の事情で学校に通っていない子どものための「寺子屋」ともいえる教育機関です。外国で見られる「ホームスクール」とは違います。

学校だけが子どもの教育に責任を持つとは限りません。学びの場はいろいろとあって家庭であり、地域であり、個人レッスンもあります。
習熟が進む生徒には、さらに習熟度を伸ばすために高い教育を授けなければなりません。学年制という枠に縛られていては、伸びる能力が滞るのです。習熟が困難な生徒は基本的な学力がつくまで学ばせて卒業させるのです。現在のように習熟が未熟でもトコロテンのように押し出すような卒業体制では、基礎となる学力がついていない生徒がやがて苦労するのは目に見えています。9年間や12年間に拘らず、たとえ15年間の教育を受けることになってもそれは決して無駄にはなりません。