Last Updated on 2025年3月13日 by 成田滋
ごろりと横になり池波正太郎の「剣客商売」というシリーズものを読んでいます。今は全19 巻のうちの12 巻目です。「鬼平犯科帳」全24 巻は読み終えました。ふと「日曜日の万年筆」という池波の随筆を手にしました。小さい時に観劇を楽しんだ日々、手で物をつくる旋盤工の時代、映画のこと、衣食住のこと、飼い猫のこと、絵を描く楽しみのことなど、とっておきの51 話が網羅されています。その中に、「土俵の人」というエッセイがあります。池波は子どもの頃から相撲好きで、ずっと見続けていたようです。彼は劇作家でもありました。
そのなかで大関「名寄岩」を主人公とした脚本を書いたとあります。私は飛び起きて、メモをとり始めました。昭和26 年から29 年に私は北海道の名寄に住んでいました。小学校5年の夏、大相撲巡業が名寄にやってきました。名寄南小学校の運動場に作られた土俵の回りには大勢の町民が集まりました。夏の楽しみはそんなにない時代です。そこで私は名寄岩を目の前で見たのです。その大きな体格に魂消たものです。なにせ相撲を見たのは初めてのことです。
早速、名寄岩の生い立ちを調べてみました。本名は岩壁静雄。名寄中学校の夜間部で学びます。昼間の労働はリヤカーをひいて、養豚に必要な残飯を貰い受ける作業です。そのため夜の授業中は居眠りすることも多く、英語や数学はついて行けなかったようです。それでも体育は得意だったようです。その後、母親が持っていた鍼灸師の免許を取得するため上京しますが、体格が目にとまり立浪部屋にスカウトされます。昭和7年5月に初土俵でデビューします。入幕したのは昭和12 年とあります。
当時立浪部屋には有名な力士の双葉山や羽黒山がいました。新入幕までは羽黒山に先行したのですが、大関昇進争いでは負けてしまいます。そして昭和18 年1月場所で念願の大関昇進を果たします。糖尿病・胃潰瘍・神経痛などのために、大関在位僅か3場所で昭和19 年5月場所では関脇に陥落します。大関に復帰したのは昭和21 年11 月です。昭和22 年6月場所では、初の幕内全休となり、同年11 月場所では11 戦全敗で再び関脇へ落ちます。
名寄での夏巡業にやってきたのは昭和26 年の夏で、その頃名寄岩は前頭14枚目位だったようです。昭和27 年9月場所では同じく北海道松前郡出身で突っ張りが得意な横綱千代の山から金星を上げたようですが、私の記憶にはありません。夏巡業のときも、持病のために十分な稽古ができたかはわかりませんが、四股や激しい申し合い、そして取り組みに名寄町民は盛んに声援を送ったものです。
昭和29 年9月場所を最後に引退します。その後、北海道からは千代の山に続いて横綱になる北の富士や千代の富士が生まれます。名寄岩は、横綱にはなれませんでしたが、闘病を続けながら40 歳まで土俵に上った名寄岩を池波正太郎は、新国劇で島田正吾に演技させるのです。冬場の冷え込みが厳しい北国、名寄を懐かしく思い出したこの夏です。 (令和3年8 月)
「怒り金時」というあだ名が定着するほど闘争心をむき出しに戦う名寄岩。他方、偉大な兄弟子双葉山の存在の影で目立つことはなかったが、冷静沈着な取組みで確実に番付を昇り続ける羽黒山。まったく異なる性格の力士たちの上には、どっしり構える兄弟子の横綱・双葉山。かつては弱小だった相撲部屋が同時期に横綱1人、大関2人の「立浪三羽烏」を輩出するという偉業を成し遂げ、相撲界を盛り上げた。(名寄市HPより)
