Last Updated on 2025年3月31日 by 成田滋
2024年6月8日のNHKプラスで「安保闘争:燃え盛った政治の季節」を観ました。安保闘争は、1959年から1960年、1970年の2度にわたる日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する運動です。若者に大人も加わり国会を取り囲む国民運動です。番組の映像には、闘争を牽引する全学連委員長の唐牛健太郎が登場します。唐牛が北海道大学の教養部(文類)に入学したのは、1956年4月。そして教養部の自治会委員長に選出されます。
60年安保が終わった翌年に私は北大に入学し合唱団に入部しました。そのときの入団同期だったのが故Y.S.君やS.F.君らです。正門や学内には革マル派、中核派、民青の立看が林立していました。そして、この安保闘争を牽引していたのが唐牛であることを知りました。私は全くのノンポリで、全学連委員長となっていた唐牛が「現代の英雄だ」とか「若きカリスマを捉えている」といった「名声」や、その後彼が日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じ、ブントと呼ばれる共産主義者同盟の結成大会に参加したことも知りませんでした。
諸々の集会やデモにおける彼の演説はセンスにあふれ、一流のアイロニに富む弁舌で「北大に唐牛あり」といわれたようです。しかし、逮捕・拘留を繰り返す中、1960年4月に教養部在籍期間を超えたために北大を除籍となります。やがて唐牛は全学連から手をひき、安保闘争の公務執行妨害などを巡る裁判で控訴するも敗訴し、1963年11月に出所します。Wikipediaによりますと、その後は実業家として転進するのです。例えばヨットスクールや居酒屋を経営し、厚岸で漁師見習いをし、紋別で漁師をし、コンピュータ販売会社のセールスマンを経験します。
時代は経て、唐牛は1982年に医療法人徳洲会創業者の徳田虎雄と知り合いとなり、同年5月には、徳田の要請で札幌徳洲会病院設立に協力します。唐牛は、北大で同期だった元江別市議会議員の斡旋で札幌市東部の白石、現在の厚別区に雪印乳業の創業者の一人で、酪農畜産の父と呼ばれた黒沢酉蔵の土地を紹介され、そこに徳洲会病院を建てます。更に唐牛は、埼玉県羽生市にも同会の病院建設に携わり、1983年9月に徳洲会羽生総合病院を開院させるのです。
徳洲会の機関紙である徳洲新聞NO.989によれば、1986年2月東区に札幌東徳洲会病院が設立されます。しかし1999年7月に病院の運営方針を巡って医局内が対立し、ついには院長交代となり、さらに大学からの派遣医が総引き上げとなる事態にまで陥りました。そこにY.S.君が病院長として登場したのです。彼はこうした事態にあって「現有勢力だけで、できる限りのことをやる。職員全員で一緒に頑張ろう」と訓示し、同時に、臨床研修指定病院にチャレンジすることも伝えるのです。2002年に臨床研修指定病院となり、2009年に臨床研究センターが文部科学省指定研究機関に認定されます。さらに国際的な医療機能評価であるJCI(Joint Commission International)認証の取得病院ともなります。
JCI認証とは、「患者様の安全性が担保されているか、高品質な医療が提供されているか、院内に継続した改善活動が行われる仕組みを有しているかを評価する認証構」といわれます。Y.S.君は「天は自ら助くる者を助く」(Heaven helps them that help themselves)をモットーとして、職員には働きがいのある職場、患者や家族には心休まる場でありたいと語っています。
今や徳洲会グループは、病院・診療所・クリニック・介護施設を合わせると総事業所数400施設を展開するという大所帯です。しかし、医療法人徳州会というのは過去に政治と金をめぐってマスコミの話題となったこともあります。創業者で衆議院議員であった徳田は委託料名目で年1億円超が徳洲会グループ企業、複数の親族に手渡したとか、選挙活動で不正に職員を大量動員したとか、公職選挙法違反事件で徳田毅衆院議員が逮捕され党籍離脱と議員辞職するとか、2012年12月には猪瀬直樹都知事へ選挙資金として5千万円を寄附し、それが選挙資金収支報告書に記載されず都知事が辞職するなどいろいろと話題が尽きない法人です。
しかし、こうしたグループ内に不祥事があったにせよ、いささかもY.S.君の病院スタッフや患者と家族への献身と医療業績は変わるものではありませんでした。映像の20世紀「安保闘争:燃え盛った政治の季節」から、安保闘争のシンボルで「ひとつの時代」に別れを告げた唐牛健太郎を振り返り、徳洲会病院とY.S.君との繋がりを知る機会になったのは、なんとも不思議な巡り合わせです。
