アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その75  移民と人口の増加

Last Updated on 2025年3月23日 by 成田滋

アメリカ社会は急速に変化していきます。その中でも人口増加率は、ヨーロッパ人にとっては驚くべきものでした。前世紀数十年間のアメリカの人口増加のペースは、10年で30%くらいの増加というのが普通でした。1820年以降、人口増加率は全国一律ではありませんでした。ニューイングランドと南部大西洋岸地域は、人口の増加率は低迷します。ニューイングランドは西部保護地域の優れた農地に入植者を奪われ、南部大西洋岸地域は新参者に提供する経済的場所が少なすぎたからです。

 1830年代から1840年代にかけての人口増加の特徴は、移民によるものでした。19世紀の最初の30年間に到着したヨーロッパ人は約25万人でしたが、1830年から1850年にかけてはその10倍となりました。移民は、アイルランド人(Irish)とドイツ人が圧倒的に多く、彼らは、個人ではなく家族単位で渡航し、豊かな労働、土地、食料、自由、そして兵役のないアメリカ生活の驚くような機会に魅了されたのです。

 移民に関する単なる統計は、南北戦争前のアメリカにおける移民の重要な役割のすべてを語ってはいません。技術や政治情勢の他に偶然性が交錯し、新たな「大移動」が生まれたのです。1840年代には、大西洋での蒸気輸送が始まり、最後の世代のウィンドジャマー(windjammers)と呼ばれた貨物用帆船が帆走速度を向上させたことで、外洋航路はより頻繁に、規則正しく利用されるようになりました。どん欲なヨーロッパ人がアメリカの呼びかけに応じ、農地を占拠し、都市を建設することが容易になっていきます。アイルランド人の移民は、後述しますが1845年から1849年のアイルランドのジャガイモ大飢饉(Potato Famine) によって巨大な本流に変えていきます。

 他方、ヨーロッパでは、民主主義思想の着実な成長が、フランス、イタリア、ハンガリー(Hungary)、ボヘミア(Bohemia)、ドイツにおいて、「1848年革命」を生みます。「1848年革命」とは、ヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命のことです。イタリア、ハンガリー、ドイツ3カ国の革命は無残にも弾圧され、政治難民が続出します。したがって、革命の後に渡航したドイツ人の多くは、自由な理想、専門的な教育、その他の知的資本をアメリカ西部に持ち込んだ難民でした。アメリカの音楽、教育、ビジネスに対するドイツ人の貢献は、数字では測ることはできないほどです。また、アイルランド人の政治家、警察官、神父がアメリカの都市生活に与えた影響や、アイルランド人全般がアメリカのローマ・カトリックに与えた影響も定量化することは難しいといえます。

 アイルランド人とドイツ人の他、1850年代に農業不況のあおりを受けて、まだ開拓されていない大平原に新しい土地を求めて移住した何千人ものノルウェー人とスウェーデン人がいました。さらに1850年代にカリフォルニアに移住した中国人は、苦境を乗り越えて金鉱で新たな機会を得ようとします。これら移民もまた、アメリカの文化に多大な影響を与えていきます。

 移民の最初の中核となったのは、イギリスからの新教徒の移住者で、彼らは後にワスプ–WASP(White Anglo- Saxon Protestant)と言われ、アメリカ社会の中核となります。アイルランドから年間100万単位での移民の契機となったのはジャガイモ飢饉です。19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉(Great Hunger) のことです。中国系の移民は苦力(クーリー)と呼ばれ、黒人奴隷制の代替の労働力として急増し、カリフォルニアの金鉱開発や大陸横断鉄道建設の労働力として使役されます。

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