アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その109 ユリシーズ・グラントの時代

Last Updated on 2025年3月26日 by 成田滋

グラント大統領(Ulysses S. Grant)の二期にわたる政権では、共和党の勢力が徐々に衰えていきます。政治家としてのグラントは消極的で、戦場で発揮したような輝きは全くありませんでした。彼の政権は、彼が忠実に擁護した部下の不誠実さによって汚点を残すことになります。ウィリアム・サムナー(William Sumner)、ベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)、タデウス・スティーブンス(Thaddeus Stevens)といった人種差別に厳しく反対する急進派の指導者が亡くなり、共和党の指導者はロスコー・コンクリング (Roscoe Conkling)やジェームズ・ブレイン(James Blaine)といった、初期の共和党に見られたような理想主義的熱意を持たない者の手に移ってしまいます。ブレインは政教分離原則を促進するために、宗教学校に公的資金を使うことを禁じる憲法修正条項を提案した政治家でもありました。

 南北戦争を機に、共和党は南部の黒人に、民主党は北部の労働者や新移民に、それぞれ新たな支持層を広げていきます。そして、それぞれが全国政党として連邦の政治に責任を持つ態勢を作り上げていきます。両党は大統領権力をめぐって激しく競いますが、南部再建が大きな争点となります。

 南部の急進派政権を強化するための努力は、次第に失敗を重ねるようになります。人種による投票差別を禁止する1870年の修正第15条の採択は、南部ではほとんど効果がありませんでした。テロ組織と農場主からの経済的圧力が、アフリカ系アメリカ人を投票所から遠ざけたからです。また、共和党が可決した3つの強制排除法(Force Act)は、大統領に人身保護令状を停止する権限を与え、テロ組織に重い罰則を課すのですが、長期的には成功しませんでした。これらの法律は、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan: KKK)を解散させることには成功しますが、KKKメンバーと彼らの戦術によってこれまで以上に白人を民主党陣営へと向かわせることになります。

 急進的な再建とグラント政権に対する北部の幻滅は、1872年の自由共和党(Liberal Republican Party)の運動で明らかになります。その結果、奴隷制廃止運動と多くの改革運動も提唱したホレス・グリーリー(Horace Greeley)が大統領に指名されることになります。グラントは圧倒的に再選されますが、国民の感情は1874年の議会選挙で示され、南北戦争勃発以来初めて民主党が下院を支配することになります。

 グラントが三期目を目指していたにもかかわらず、ほとんどの共和党員は1876年までに候補者と再建計画の両方を変更する時期がきたと認識し、オハイオ出身のラザフォード・ヘイズ(Rutherford B. Hayes)が指名され、第19代合衆国大統領となります。ヘイズは、高い理念と南部への深い共感を持っていた穏健派の共和党員でした。ヘイズの指導によって共和党の急進派の支配が終ります。

 1876年の大統領選挙をめぐる状況です。ヘイズは、たとえ南部に少数の急進派政府が残るとしても、南部白人と協力する意思を強める姿勢をとります。多くの不正が行われた選挙で、民主党候補のサミュエル・ティルデン(Samuel Tilde)は一般投票の過半数を獲得しますが、15人の委員からなる選挙委員会によって僅差でヘイズの勝利となります。

 ヘイズの陣営は、この行き詰まりを解決するために、南部の民主党議員と協定を結び、南部から連邦軍を撤退させ、南部の支援を民主党に分け与え、南部が要求する堤防や鉄道建設への連邦補助金の提供に賛成することを約束することとなりました。北部はアフリカ系アメリカ人を保護するために南部の選挙に干渉しなくなり、南部の白人が再び州政府を支配することになります。

 ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を叫びます。1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、再建が終了すると連邦軍の南部撤退を命じます。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言したりします。

 グラント大統領は1879年6月に日本を訪問します。明治天皇はグラント夫妻の訪日を歓迎し、浜離宮内の延遼館を夫妻の宿舎として提供します。天皇とグラント将軍の会見は、天皇自らが浜離宮を訪問するという前例のない形で行われたといわれます。

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