Last Updated on 2025年1月16日 by 成田滋
今でこそインクルージョン(inclusion)やインクルーシブ教育という用語は珍しくないが、もとはといえばメインストリーミング(mainstreaming)とかインテグレーション(integration)という用語と同義に近い。我が国では統合教育と呼ばれたが、自分も那覇の丘の幼稚園で障がいのある幼児を受け容れたのが1974年で、文部省の研究指定を受けたのだからもしかしてインクルージョンの「さきがけ」だったのではないかと密かに自負している。
国立特殊教育総合研究所に就職してからも欧米のインクルージョンの実践の経緯は、逐次調べては論文にまとめてみた。アメリカの個別障害者教育法もインクルージョンを全面に押し出していた。だが、我が国の普通学校と特殊教育諸学校の分離体制は堅固であり、インクルージョンは大分先のように考えていた。欧米の先進的な取り組みを現地で観察したり、政府が発表する年次報告書などを紹介することによって、分離教育に風穴を開けることができるのではないかと自分は考えた。当時の文部省の特殊教育課長補佐と一緒にアメリカのナッシュビルやカナダのトロントなどの学校を訪問して調査したのもその方略の一環であった。
もう一つは、裁判事例によって保護者や親の会を味方につけることであった。1986年頃だった記憶するが、北海道は留萌市の中学校において、新設の固定学級(特殊学級)への配属を拒否した保護者と生徒が市教を相手に訴訟を起こした。通常学級で学びたいというのが原告の要求であった。その裁判の経過は北海道新聞の記者から聞いていた。気を揉む展開となりそうだった。そして判決は原告の敗訴。判決内容についてコメントを求められたのである。そこで、「生徒と保護者の意思を無視する固定学級での学びを強いるのは、時代錯誤、時代遅れの判決である」と記者に伝えた。
そのコメントが文部省の役人と筑波大学のM教授のものと一緒にその日の北海道新聞の夕刊に掲載された。もとより文部省の立場は、判決は妥当なものであるという。M先生のコメントは中庸な内容だったと記憶している。それを読んだ北海道教育庁の誰かが、文部省の特殊教育課に知らせたらしい。そして文部省から研究所にそのことで問い合わせがあったようだ。翌日私は研究所の上司から呼び出されて聴取を受け、その経緯を説明させられた。「時代に逆行する判決である」と書いたためである。文部省直轄機関の一研究員が「お上」に逆らったのである。その聴取では、今後は報道機関からの問い合わせには事務を通すようにという軽躁なものであった。お咎めも始末書もなかったがしばらくは蟄居した。時はインクルージョンの情報がじわじわ浸透し、研究所もこの趨勢に抗うことが困難であると判断していたようである。
どうも私には権威に対するアレルギーのようなものがある。苦労して勉強してきたこと、ヤワな鍛えられ方をしてこなかったという自負と自信も強く、前例とか組織の体質には疑問を抱くのでどうしても上司とは軋轢を生みがちになる。保護者と子どもの側に立つのが教育の基本であるから、どのような強圧的な指導が入っても終局的にはそれを論破していくことができる。行政というのは慣例や慣行に対して内からも外からも疑問を差し挟むことが困難な体質がある。留萌の裁判事案がそうであった。多くの学校管理者にある「つつがなくお勤めを果たす」という内向きの姿勢が変化を難しくしている。
1995年3月1日に川越市が脳性麻痺の子どもを特別支援学級で受け容れると発表した。その顛末というのは、埼玉県教育委員会が、保護者の要求に対して、「特別支援学校では医療行為ができない、もし受け容れるとすれば保護者の同伴を要求する」というものであった。しかし、保護者は、共働きでなければ生活が成り立たないと主張した。川越市教育委員会は、すでに就学が2年も遅れている実情に鑑みて、二人の看護師をつけその子どもを受け容れるということにした。一体、特別支援学校とはなんなのか、という問題提起をする事案であった。
保護者が就学が遅れたことを理由に県教育委員会を訴えるとすれば、恐らく県は敗訴するはずである。これがもしアメリカで起こった事案とすれば教育委員会は100%、間違いなく敗訴する。それほど保護者や子ども権利は尊重されている。
