沖縄で囲碁が発展した背景

Last Updated on 2025年3月2日 by 成田滋

日本における史上初の国際碁試合は、琉球国の親雲上浜比賀(ペーチンハマヒカ)と四世本因坊道策との対局といわれます。琉球は1429年から1897年までれっきとした独立国でした。その間、明国やその後の清国に朝貢を送り続け、恭順の意を表します。1609年に琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸幕府に使節を派遣していきます。

進貢船

1682年の琉球第二尚氏時代、尚貞王のときに朝貢の随員として浜比賀も加わり、官許によって道策と対局ができたといわれます。 その28 年後、徳川家宣征夷大将軍就任の慶賀のため琉球から江戸に派遣された一行に屋良里之子(ヤラサトノシ)がいまして、当時七段の本因坊道知と対局したという記録もあります。琉球国が滅亡したのは、1871 年の廃藩置県により首里城が明け渡され鹿児島県に併合された1897年です。

沖縄は伝統的に将棋よりも囲碁が普及していています。これは明や清との関わりによる影響といわれます。琉球王府の譜代士族では碁は大事な素養であったことが伺われます。明や清の冊封使の接待とか、代々の王への碁の指南で活躍したのが浜比賀や里之子らです。彼らは江戸への朝貢の一行に加わり、文化使節としての役割も果たしたようです。

私が幼児教育を始めるために沖縄に派遣されたのは本土復帰2年前の1970年です。当時はアメリカの治政下で、琉球政府が沖縄を治めていました。沖縄タイムスという地元紙で囲碁欄の解説を40年余にわたって執筆していたのが下地玄忠という五段の方でした。下地玄忠氏の指導で女流本因坊4期、女流棋聖5期のタイトル保持者知念かおり六段、時本 壱九段、新垣 武九段、下地玄昭七段が育っていきます。沖縄タイムスの夕刊を楽しみにしていた那覇での生活でした。 〔2020年8月〕

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