心に残る名曲 その百九十一 バルトークと「Divertimento」

Last Updated on 2019年2月16日 by 成田滋

バルトーク(Bartok Bela)はルーマニアで生まれハンガリーの作曲家です。ハンガリーのブダペスト王立音楽アカデミーに学びます。ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

Bartok Bela

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。

Koday Zoltan

1905年からはコダーイ・ゾルタン(Koday Zoltan)とともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始します。その調査はやがてトルコや北アフリカにも及んだといわれます。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの民族音楽の特性を発見しますが、保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘したようですが、研究成果はその後の創作上の源泉となっていきます。1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。

Ernst von Dohnanyi

1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,「弦楽四重奏曲第3番」、「同第6番」、「Divertimento」などを作曲していきます。第二次世界大戦が勃発し、ハンガリーももはや民俗音楽を研究できる環境ではなくなります。ナチスの文化政策などを嫌い、バルトークは1940年にファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命します。

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