Last Updated on 2025年2月6日 by 成田滋
大阪市長と教育委員会が、高校体育系の入試の中止、教員の入れ替え、人件費の執行停止とやらで対立している記事を思い出した。日頃から教育委員会のあり方に苛立ちを感じる筆者としては、注視していきたい話題であった。この対立のもとは、体罰を常態化させた学校と新しい指導の方向性が見いだせない教育委員会にあったようだ。
問題の体罰であるが、その定義はいろいろな識者が論じている。昔、親父から尻を叩かれたり、平手打ちを喰らったことがある。「圧倒的に優位に立つ者による感情の暴発行為」というのは上手く説明している。婦女子、子ども、お年寄り、障がい者は圧倒的に弱い立場にある。であるから親から自分が受けたのは明らかに体罰となる。
私の親から叩かれた体験は、今思えば罰として与えられたと解釈する。この仕業が全く悪いともいいにくいところにつらさがある。親は子どもを可愛さのあまりに、手を下したに違いない。小生も小さいとき体罰を喰らったが、親父は恐いと思ったことを忘れない。ヒリヒリする痛さはなんの記憶になく、ただ「悪いことをしたらまた叩かれる」。そんな記憶が残っている。
「鬼手仏心」という言葉がある。患者を救うときの医者の行為を意味する。執刀することは残酷でも、そこには慈悲の心があるというのだ。親も、心を鬼にして息子になにかを教えようと体罰を加えたに違いない。自分も長男が小さい時、げんこつを見舞ったことがある。その長男と嫁は二人の子どもには決して体罰を使わない。厳しい目つきで子どもを叱るか、それでもやまないときはタイムアウトを与えていた。「鬼口仏心」とでもいえようか。仏心と愛情が本物であるかは個人に帰させるものだが、その見分けは難しい。
昔の親は厳しかったような気がする。貧しい生活の中で、物を粗末にしたり食べ残しをする行為が続くと雷が飛んでくる有様であった。その両親は鬼籍に入り19回忌が迫ってきた。