Last Updated on 2025年3月1日 by 成田滋
山本周五郎の作品に「粗忽評判記」というのかあります。山本は好んで江戸時代に材をとり、市井の人々の悲喜や武士の哀歓を描きます。庶民の側に立つという徹底した文筆態度です。権威ある者を風刺するような描き方をするのもあります。「粗忽評判記」もそうてす。「小説というのは読後感か爽やかでなければならぬ」という信念を持って書いたといわれます。主人公は苅田久之進という粗忽者です。粗忽とは、「そそっかしい」、「おっちょこちょい」,「間抜け」、「軽率」ということ。久之進の主君三浦壱岐守明敬も彼に劣らぬ粗忽な人です。壱岐守は、性急な質で忘れっぽく耳か早いという粗忽者の典型です。他方、久之進は落ち着き払って粗忽なことをやるので、目立つこともこの上ないのです。
ある時、この二人か競走馬のことで馬と技の優劣を論じ合っていました。壱岐守は次第に旗色か悪くなるので大いにせき込んで、「では囲碁で勝敗を決めよう」と提案します。「いかにも承知でござる」久之進はにやにや笑いなから立っていきます。間もなく将棋盤を持ってきて据えます。肝心の物を間違えています。当人も気かつかないし壱岐守はもとより大いにせき込んでいるので、すくに駒箱を明けなから「許す、先手で参れ」というのです。
「それはなりません。先手は下手なほうがとるもの。お上と拙者とでは段が違います」「余の命令じゃ、先手で参れ!」「御意なればやむを得ません、では、」久之進はしぶしぶ駒箱の中へ手をいれます。ここで久之進は気がつくかと思うのですがそうはありません。指先で駒を弄りながらはてなと考えだします。碁は打つもの、将棋は並べて指すものです。駒と石とが違うのですから摘んではみますかが、具合の変なのは当たり前です。壱岐守も駒を捻っていましたが、久之進の様子をみて、こいつまた何かそそっかしいことをしたなと思います。
粗忽人の癖として「こうなると失策だ」という考えだけで突き当たって他の事は忘れてしまうのです。しばらく駒を弄りまわしていましたが、ついに壱岐守がとって付けたように笑いだします。「どうだ久之進、えーどうだ、あはは、参ったか!」何がどうなのか分かりません。ところが久之進のほうもまたひどく恐縮した様子で、「いやどうも、まことにどうも」「あっはは、どうだ久之進、どうだ、どうだ、あっははは」しきりにどうだ、どうだといって笑っているのです。久之進も笑い出します。二人でしばらくケラケラ笑っていましたが、やがて碁のことには一言もふれず、揃って庭のほうへ出て行ったところをみると、両方とも何を間違えて可笑しくなったのか分からずじまいらしかったのです。 (2018 年2 月)
