アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その76  ユートピア移民のコロニー

Last Updated on 2025年3月23日 by 成田滋

次ぎに、新世界に新しい社会を作ろうとした思想家たちのユートピア移民のコロニーにも触れることにします。テネシー州のナショバ(Nashoba)やインディアナ州のニューハーモニー(New Harmony)には、それぞれフランシス・ライト(Frances Wright) とロバート・オーウェン(Robert D. Owen)という2人のイギリス人が入植しました。また、アイオワ州のアマナ(Amana)、テキサス州のニューウルム(New Ulm)やニューブラウンフェルス(New Braunfels)には、ドイツ人が計画した入植地(colony)ができました。

「明白なる運命」(Manifest Destiny) に代表される物質主義と拡張主義の大胆さが、移民によるアメリカ国民の膨張の一因と考えられます。これらのコロニーという共同生活の試みは、アメリカ人の思想を動かしている物質主義的とは違ったものでした。それは、改革の時代における地上の楽園を求めるというパタンに合致するものでもありました。

 北部のアフリカ系アメリカ人のほとんどは、自由以外のものをほとんど持っていませんでした。彼らは、北東部の都市でアイルランドからの競争相手に対して戦いを演じてはいました。この2つの集団の間の闘争は、一時的に醜い暴動に発展します。一般社会が自由なアフリカ系アメリカ人に示した敵意は、それほど激しいものではありませんでしたが、絶え間なくみられました。政治、雇用、教育、住宅、宗教、そして墓地までもが差別され、過酷な抑圧体制のなかに置かれました。奴隷と違って、北部の自由なアフリカ系アメリカ人は、自分たちが支配されることを批判し、また請願することができましたが、自分達の状況が悪化し続けるのを防ぐことが無駄だと理解していきます。

 ほとんどのアメリカ人は田舎や僻地に住んでいました。機械の進歩によって農業生産は拡大し、農業の商業化が進みますが、独立した農業従事者の生活は世紀半ばまでほとんど変化しませんでした。しかし、一部の農家が発行する機関誌には、「自分たちの努力は社会から評価されていない」と書かれていました。農家の実態は複雑で、多くの農民は、労働に明け暮れ、現金は不足し、余暇はほとんどない生活を送っていました。農民の賃金は微々たるもので、農民の多くは、過酷な労働と現金不足、余暇のない生活を強いられていました。しかし、アメリカでは、自分の土地を持つ農家の割合がヨーロッパよりはるかに多く、世紀半ばになると、農業従事者の生活水準やスタイルが着実に向上していることが、さまざまな事実によって明らかになっていきます。

 1850年代には、ジェームズ・ダフ(James C. Duff)というルーテル教会会員に率いられたドイツ人がテキサス州にニューウルム(New Ulm)という町を建設します。ウルム地方からやってきたのです。ニューウルムには6つの商店、5つの鍛冶屋、3つのパン屋ができます。タバコの生産も盛んとなります。ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)に人口4,490人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな町があります。ここにはワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住んでいます。1893年頃にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域でカトリック教会から迫害を受けて、はるばる新大陸にわたり、ヴァルデイズにコロニーをつくったのです。

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