久しくカトリック聖歌の声が消えて200 有余年、鎖国時代が終わります。禁教、海禁体制の終わりです。しかし、明治新政府は文明開化を目指しながらも、キリスト教禁止政策を継承します。長崎では肥前浦上信徒らへの激しい弾圧を続けます。これは「浦上教徒事件」といわれました。こうした弾圧に対して外国使節団は激しく抗議し、また1871年の岩倉具視らの遣欧使節団から、この弾圧が不平等条約改正の障害となっていることを指摘されます。1873年に新政府はキリシタン禁制高札を撤去し、西日本諸藩に送り込んだキリシタンを帰村させます。
少し時を遡り、禁教令の廃止に至る歩みです。19 世紀に入るとローマ・カトリック教会を母体としてアジアおよびアメリカ大陸で宣教活動を展開します。それまでキリシタン時代を築いたイエズス会に代わり、パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)が東洋布教の任務につきます。その理由はイスパニアやポルトガルの衰退による列強からの脱落です。東洋布教を主導した同宣教会は、日本上陸と再伝道の準備を始めます。
日本へは1844年にフランス人宣教師フォルカード(Theodore Augustin Forcade)らがフランス軍艦で琉球に到着します。1858年に日仏修好通商条約が締結されます。1859年にはジラール(Prudence Seraphin Girard)がフランス総領事一行とともに、禁教以後はじめての公認されたカトリック宣教師として江戸に入ります。1862年にはプティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)などが開港地の長崎や横浜に来航します。1862年、横浜には在日居留外国人のための横浜天主堂が、1865年には長崎にはフランス人と日本二十六聖人たちに捧げるために大浦天主堂が建設されます。その中心となった宣教師がプティジャンです。大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といいます。1953年、国宝に指定された歴史的な建造物です。