キリスト教音楽の旅 その17 日本のキリスト教と音楽 その2 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

ポルトガルから1554年にやってきた第三次宣教師団にはルイス・フロイス(Luís Frois)の他に、コレジオ(collegio)と呼ばれる聖職者育成の神学校から聖歌に熟練した5人の青年神学生が含まれていました。その一人に、アイリス・サンシエス(Iris Sanchez)がいて、聖務日課や単旋律聖歌などを携行していました。豊後府内、今の大分の信徒は聖週間になると「Miserere mei, Deus」、”神よ憐れみ給え”を歌い、11月の死者の記念日には連祷(Litany)を歌ったといわれます。

ルイス・フロイス

1560年以降、西日本各地の教会には附属する初等学校ーセミナリオ(seminario)が作られます。生徒らは祈りや聖歌をラテン語や日本語で歌いこなし、ミサ仕えをするほどになったといわれます。サンシエスは天草の志岐、島原の口之津にも少年少女聖歌隊を組織し、「その発音も歌唱力もきわめてすぐれ、楽曲および歌唱を相当会得した」と記しています。1565年頃、府内ではモテットなど多声楽も歌いことなすようになります。1579年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)がやってきて、布教活動は活発になります。1580年頃には島原の有馬と安土にもセミナリオが開かれます。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

フロイスは、織田信長や豊臣秀吉らと謁見しその信任を得て畿内での布教を許可されます。主に安土の付近での宣教活動です。ヴァリニャーノの通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。既存の仏教界のあり方に信長が反感を持っていたのも幸いしたようです。フロイスはその後、聚楽第で秀吉と会見したとも記録されています。この頃が日本おけるイエズス会の最も盛んで安定した宣教状態でありました。

安土のセミナリオ址