心に残る名曲 その百九十八 日本の名曲 成田為三と 「歌を忘れたカナリヤ」

秋田県出身の作曲家成田為三です。生まれは1893年。1914年に東京音楽学校に入学し、山田耕筰に教えを受けます。現在の東京芸術大学です。在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けます。1916年にはすでに「浜辺の歌」を作曲するという才能を示します。この曲は、国民的作品として今でも広く歌い続けられています。

成田為三

1917年に同校卒業後、九州の佐賀師範学校教師となりますが、作曲活動を続けるために東京に戻ります。そして1922年にドイツに留学します。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(Robert Kahn)に師事し、和声学、対位法、作曲法を学びます。1926年に帰国後、留学中に学んだ対位法の技術をもとにした「対位法初歩」、「和声学」、「楽式」、「楽器編成法」といった理論書を著すのです。為三は、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し輪唱曲集なども発行します。

歌を忘れたカナリヤ」が「赤い鳥」誌上で発表されます。「赤い鳥」は、1918年に詩人鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌です。この雑誌に為三作曲の楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載されます。新鮮にして甘美なメロディーが日本中の子どもたちの心をつかんだといわれます。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったようです。ですが5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになったといわれます。北原白秋の「からたちの花」が発表されたのも「赤い鳥」です。「赤い鳥」によって児童文学運動は一大潮流となるのです。日本の文学史上、先駆的な雑誌になったことがわかります。

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