日本の西洋音楽の分野で初めて本格的な活動を行った作曲家で指揮者が山田耕筰です。大正から昭和の時代にかけ,日本における西洋音楽の基礎を作るうえで,創作と演奏の両面にわたって大きく貢献します。
山田は1886年,東京に生まれます。少年時代に両親を亡なくしたため,イギリス人宣教師と結婚した姉夫婦のもとで育てられます。この義理の兄が東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)で、彼から音楽を教わるのです。東京音楽学校の声楽科を卒業後,実業家の岩崎小弥太の援助を受けて,24歳からドイツのベルリンの音楽院に留学し,伝統的なドイツ音楽の作曲を学びます。和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得です。東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかった時期です。
1914年,28歳で帰国してからは日本初の管弦楽団を指揮したのをはじめ,大小さまざまな演奏会を開いて日本に西洋音楽を広めます。さらに,自らも多くの作曲を行い,国内だけでなく海外でも作品を発表しました。彼の作品の数はたいへん多く,オペラや管弦楽曲から映画音楽まで幅広いジャンルにわたっています。
管弦楽団の運営に失敗し、1926年に茅ケ崎に移住します。この地の穏やかな環境で創作意欲を取り戻し、歌曲や童謡の作曲にも取り組みます。三木露風の詩「赤とんぼ」や「この道」などの名曲が茅ヶ崎で生まれます。北原白秋の詩による「からたちの花」、「待ちぼうけ」、「砂山」など数多くの名曲を残し,その旋律は言葉のアクセントを生かし,日本語が自然に美しく歌われるように工夫されています。