心に残る名曲 その百七十四 ウディ・ガスリー 「Dust Bowl Refugee」

ボブ・ディランに大きな影響を与えたフォーク歌手・作詞家・作曲家がウッドロウ・ガスリー(Woodrow “Woody” Guthrie)です。1912年オクラホマ(Oklahoma)州生まれ。14歳の時母親が死去し一家は離散し、17歳頃に彼はアメリカ中を一時雇いの労働者として放浪します。1930年代はアメリカは大恐慌(Great Depression)の時代です。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にします。ボブ・ディランはウディ・ガスリーについて次のように云っています。
「ぼくにとってウディ・ガスリーは究極だ、」クラブハウスやコーヒーショップを回っていた頃、ディランは「ウディ・ガスリーのジュークボックス」とあだ名されるほどガスリーの作品を歌っていたといわれます。

Woody Guthrie

ガスリーは19歳のときにテキサスへも行きます。そしてダストボウル(Dust Bowl)が襲ってきます。ダストボウルとは、干ばつと原始的な耕作のために起こる大規模な砂塵嵐のことです。ダストボウルは広い耕地から土をさらい、近くの農場や牧場、遠く離れた州まで土地は砂塵となって舞い上がります。こうして凶作によって、多くの小さい農家が揃って州から逃れざるを得なくなります。砂塵嵐により、周期的な激しい干ばつが襲うのです。土地を追われた農民らは、カリフォルニアに移住するのです。こうしたオクラホマ州の人々はオーキーズ(Okies)と呼ばれ、放浪者(hobo)とか季節労働者となります。ガスリーも1937年にオーキーズの一人としてテキサスに彼の家族を残して、ヒッチハイクをしたり貨物列車に乗り、ロスアンジェルスへ旅立ちます。世界恐慌のいわば真っ直中の頃です。

Dust Bowl

ガスリーは、バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小銭を稼ぎます。若い時の旅で見た貧困は、のちのガスリーの作品に大いに影響を与ます。ガスリーは生涯、社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙(Daily Worker)という小さな新聞で投稿したりします。1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」(This land is your land)を書きます。この曲は彼の放浪中の経験にそっています。このメロディーは、1930年頃にカントリー / ブルーグラスのグループであるザ・カーター・ファミリー(The Carter Family)によって歌われ、最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」(When the World’s On Fire)に基づいています。「Oh, My Loving Brother」、「Hard Traveling」、「Dust Bowl Refugee」など彼の歌の多くが労働者階級が直面する姿を描き、やがて人々を惹き付けていきます。

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