ジョン・ミューア(John Muir)はヨセミテの大自然に魅了されたばかりでなく、自然の驚異と人間の営みについての原稿や著作を発表していきます。New York Tribune, Scribner’s, Harper’sといった出版社が原稿を引き受け、自然や環境についての著作が世の中にでるのです。科学界からも注目され、彼の出版物は世間でも広く読まれるようになります。著作はミューアが自分の足で歩き観察したことが題材となっています。
こうして作家、植物学、地質学にも精通したミューアは、シエラネバダ山脈の地形が氷河作用に深く関わっていることを発表します。1848年から1855年代ゴールドラッシュ(Gold rush)の頃で、西部開拓の人口が急増します。人々は、豊かな森に豊富な水をたたえたヨセミテの地で森林伐採やダム建設を計画していきます。ミューアはこうした世相の流れに真っ向から異議を唱えていきます。
1890年、イエローストーン(Yellowstone)が唯一の国立公園でした。そのころヨセミテ公園は州立公園だったのです。ミューアは、国立公園への格上げの運動を始めます。彼の著作が多くの人々の賛同を得ます。さらに支援団体が議会に対して格上げのロビー活動をしていきます。
他方、森林業の団体は、保護する資源は無駄遣いになっているとして格上げに反対するのです。こうした反対活動にもかかわらず、ヨセミテとセコイア(Sequoia)は国立公園として指定され、自然保護の対象となっていきます。
1901年には、ミューアは自然保護団体の人々とルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領にホワイトハウスの執務室(Oval Office)で会い、自然保護地域の拡大を訴えるのです。1903年にルーズヴェルトとミューアはヨセミテ峡谷でキャンピングをし、一帯の148ミリオンエーカー(6029平方キロ)の森を保護の対象とします。ルーズヴェルト政権下では全米の国立公園の数が二倍になるのです。国立公園の理念を確立させたのがルーズヴェルトといわれている所以です。
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