心に残る一冊 その153  「山椿」 その一「饒舌り過ぎる」

近習頭で百三十石という小野十大夫と奉行職記録所の頭取心得で役料は十人扶持の土田正三郎の友情がこの短編小説の主題です。

近習頭は常に主君の身辺警護にあたる役で、奉行職は家老の補佐役といったところです。二人は、飲み友達であり剣術の師範格といってよいほど、腕がたけています。「道場で一本つきあってくれ」とか「一杯やりにいこう」という間柄です。熱が入って「饒舌り過ぎる」のです。枡兵という料理茶屋があります。代銀が高価で、主に中以上の侍とか金回りのいい商人が利用しています。この茶屋におみのという娘がいます。年は二十二歳で、時々十大夫と正三郎に酌をするのです。彼女に対して二人は慕情を寄せています。

あるとき十大夫が正三郎に本心を訊きます。正三郎はびっくりして十大夫の顔をみまもり、ついで微笑しながらそれは逆だ、と答えます。十大夫も正三郎がおみのを好いていることに気がついています。おみのは十大夫にのぼせているのですが、なるべく二人の邪魔をしないようにしています。

おみのは、「お二人とも同じくらいに好き」「お二人を別々にかんがえることできない、」とさも困ったように告白します。男二人に女一人ではどうにも片付けようもありません。しばらくこのままでようすをみようとお互いに合意します。この三竦みの関係は丸三年続きます。

十大夫は安川しずと祝言します。しずは剣術道場で凄腕の安川大蔵の妹です。正三郎も、城代家老の姪にあたる篠原しのぶという女性と結ばれます。二人が共に好いていたおみのではありません。

二人が三十二歳になったとき、十大夫が吐血して倒れます。その後なんどか吐血し十大夫が正三郎に会いたがっているという知らせがきます。しかし、正三郎は見舞いにいきません。周りの者は、あれほど仲が良かったのにどうしたことか、兄弟よりも親密で離れたことがなかったではないか、、そうした非難がひろまります。そして十大夫が危篤になります。

「しかし万が一のことがあったら」と安川大蔵がいいます。
「なにができる、」正三郎は大蔵の言葉を遮って反問します。
「二人の医者がついていて、それでもだめならものなら、私がいったところでどうしょうもないではないか、うろたえるな!」

正三郎は、十大夫の危篤が伝えられたとき、仏間にこもって夜を明かします。十大夫の死後も七日毎の供養をひそかに行います。家人の誰にもしれないように仏間で誦経してすごします。

しかし、そうしたことも正三郎に対する反感をたかめる役にしかたたず、かれの評判は少しもよくなりませんでした。そして六年が経ちます。正三郎が十大夫の墓参りをしたとき、十大夫の妻、小野しずが立っています。

しずはどうして良人を生前に見舞いをしてくれなかったのかを正三郎に訊ねます。正三郎はそれにこたえます。
「十大夫は私に道場の師範役を継がせるつもりでした」
「師範の次席には安川大蔵がいるし、彼は師範なる十分な腕をもっていました」
「十大夫は安川の妹であるあなたを娶りました」
「十大夫はあなたの兄に自分の役目を継がせることはできません」
「もし危篤の病床で私に師範を引き受けてくれと頼まれれば、いやとは云えません」
「それで見舞いに行けなかったのです」

正三郎はさらに云います。
「無情な奴だ、というような噂はずいぶんききました」
「見舞いに行けないという辛さは耐え難いものでした」
「あなたならわかってくれるでしょう、」

こうして正三郎は師範役を辞退したのです。