心に残る一冊 その149 「やぶからし」 その六 避けぬ三左

駿河国府中の城下街で、小具足をつけた三人の若者がひそひそと囁いています。大手筋の方から、ひとりの大きな男がやって来ます。眉が太く、口の大きな、おそろしく顎骨の張ったいかつい顔です。眼だけは不釣り合いに小さいのですが、柔和なひかりを帯びています。徳川家康の武将、榊原康政の家臣の一人、国吉三左衛門常信です。いつもは向こうから来る人であろうと、戦で矢弾丸だろうとなんであろうと、避けないので「避けぬ三左」と呼ばれています。雨の日でも雪の日でも傘や簑をつけません。「ああ、いい天気だな」というほどです。それでこの綽名がついています。

三左に突然憂うつが襲うのです。大橋弥左衛門という榊原家の年寄がいます。槍組の侍大将です。三左は、弥左衛門に鷲尾家の小萩という娘を妻にしたいと仲立ちを依頼します。しかし、実のところ小萩なる娘がいかなるものかを知らないのに結婚を決意するするのです。それは小田原評定後、徳川家が関東に移封されれば、家康の天下統一は三左の孫子の代の先になるのではと心配し、あえて出陣前に妻を娶ろうときめるのです。

箱根や鷹巣城攻めに加わった三左は、例の矢弾丸を避けぬ戦法で先陣にたって名乗りを上げます。
「城の大将にもの申す、山中城すでに落ちた」
「守将松田どのはじめ諸武将それぞれ討ち死にされた、早く城門を開いて降伏せられよ」

とたんに敵城方から射かけられた矢が三左の体へ突き刺さります。彼はそれでもぐっと槍をつかみ、城門へと悠々と大股で前身します。これを見た敵兵は恐怖にうたれ、動揺がおこります。その動揺はそのまま大きく敗走へと向かいます。榊原軍は一斉攻撃にうつり、難なく落城させてしまいます。

主君榊原康政に助けられた三左は、小田原城を見たいと願い出ます。城が指呼にあり、相模野が広がります。じっと眼を凝らして晴れやかにいいます。
「ああ、いい天気だな、、」

絶えてひさしい三左の言葉に、周りの兵たちはいいます。
「鷲尾の小萩どのを見たらもっといい天気だろうぜ、、」
「なにしろあのひとが駿府のかぐや姫といわれる佳人だとは、彼はまだ知らずにいるのだから」

短期決戦否定の戦争観と粘り強く天下制覇を果たした家康ごのみの色彩がはっきりと現れる作品です。