心に残る一冊 その その140 「若き日の摂津守」 その一 若き日の摂津守

山本周五郎の作品には、白痴とか唖者を装って主君に仕えるとか、家臣を欺くといった場面が登場します。既にこのシリーズで取り上げた「小説日本婦道記」に収録される「「二十三年」という短編に「おかや」という女性がいました。二十三年もの間、口が利けず白痴のふりをして新沼靭負に仕え、その息子の牧二郎の養育にあたるのでした。若き日の摂津守光辰も白痴のふりをして藩を牛耳る家老や重臣を一掃する物語です。

摂津守光辰は「うまれつき英明果断にして俊敏」ということが藩の正史にありました。けれども別の藩の記録には次のような記述もありました。
「幼少のころから知恵づくことがおくれ、体は健康であったが、意力が弱く、人の助けがなければ何一つできなかった。つねに涎をながしながら、みずから拭くすべを知らなかったし、側近のものが怠ると失禁されることも稀ではなかった」

光辰は家督相続をして摂津守に任じられ、二十一歳のとき初めて国入りをします。二の丸御殿で祝宴がひらかれます。家臣が宴に列席します。光辰は上段に座っているだけで、しもぐくれのおっとりした顔立ちで、上背のあるいい体格だが、眼つきや口許にしまったところがなく、疲れたような、寝不足なような、とらえどころのない、ぼうっとした表情をしています。後ろに小姓頭がときどきみをかがめて光辰になにごとか注意します。すると光辰はでかかっていた欠伸を半分でやめたり、袖でゆっくりと口の周りを拭きます。家老や年寄らの重臣が光辰をみる眼には憐れみと軽蔑の色があらわれています。

光辰と正室の間にはまだ子がおりません。年が違いすぎるのか体質があわないのか、結婚してからもう五年もなるので、家臣たちは国許の健康な娘を側室にあげるということに決まります。酒宴の席上給仕にでたのは側室の候補なのですが、家老の浅利重大夫から光辰に告げてあったのですが、光辰はてんで娘達を見ようとしません
「殿、、お気に召した者がございますか?」
「おれは誰でもいい」光辰は途方にくれたような顔でこころぼそくそう云います。

「民部、、」光辰は助けるように小姓頭の永井民部に訊きます。
「このおれは、誰だ」
「おそれながら、、当松城五万六千石の御領主、摂津守光辰さまであらせられます」

「だめだな、、こちらで選ぶよりしかあるまい」と家老の浜岡図書が云います。その夜、重臣達が集まり、側室の選考をします。そして吉田屋という藩の御用商人の娘を選びます。商人の娘なら、たとえ世継ぎを生んだとしても親が藩政の邪魔になるような怖れはないという理由です。年は十七歳、容貌はまず十人並みですが、体はよく発達して健康そうです。この娘はおたきといいました。

おたきは寝所にあがります。白小袖に白の帯をしめた姿で褥の上へあがります。
「いいか、」光辰が囁きます。
「はい、」
光辰は妻戸をあけ、一冊の書物を出してくると、畳のうえにじかに座ったまま読み始めます。それはおたきが伽にあがって七日めの晩から、一夜も欠かしたことのない習慣です。
「黙っていてくれるか、、」
初めての夜、光辰はおたきに云います。家臣達に知られると困る、黙っていてくれるかと云うと、小滝は黙っていると約束します。おたきはやがて、殿様はばかをよそおっているのではないかと思うのです。光辰は、おたきに触れようとしないのですが、「決して嫌いではない、お前がすきなのだ、、それまで待ってくれ、」とおたきに云います。おたきは光辰の言葉には真実を感じるのです。