山本周五郎の「初蕾」という短編小説です。舞台は鳥羽港のあたりです。梶井半之助という若者がいます。見栄や衒いが少しもなく、かといって美男子でもありません。背は余り高くなく、笑うと眼が糸がひくように細くなります。酔ってうたう歌は調子はずれ。どこといって取り柄のない風貌です。然し半之助からゆったりと大きな温かさを感じ、静かに押し包まれるような気持ちにさせられるのがお民という女性です。
半之助は幼少から学問の好きな子で、やがて藩の学塾では秀才といわれ、17歳のときは塾の助教を命じられるほどです。ですが22歳のとき、彼の思想が老子の異端に類するといわれ、助教の職を追われるのです。彼の才能を妬むものの仕業でありました。
江戸時代では学問をする者は「道」を説く老荘思想を退けるのは自然。然し、朱子学以外に眼をつむることは単に御用学者として怠慢と云わなければならない、そう半之助は考えたのです。職を追われると半之助は性格が変わり、酒を呑んだり茶屋出入りをするようになります。
お民の兄と母が病で亡くなり、13歳のお民は「ふじむら」という店に奉公に出されます。お民は成長するにつれ、店にやってくる半之助の酌をしながら二人は語らい合うようになります。
「夫婦になっても3年か5年、くすぶった気持ちで厭々暮らすよりも、好きなうち、こうした楽しく逢い、飽きたらさっぱり別れてしまう。これが人間らいしい生き方じゃないか」
「その約束をしましょう、好きなうちは逢う、飽きたら飽きたと策さず云う、そしてあとくされなしに別れる、、、、、きっとですよ」
こうして二人の人目を忍ぶ逢瀬が続きます。半之助はやがて森田久馬という友人とそれぞれの生き方の違いで口論となり果たし合いをしてしまいます。そしてお民に告白するのです。
「森田は正しいことを云っていた。おれがどんな下等な卑しい人間だったかということ、おまえとこういう仲になっていながら、好きなうちは逢おう、飽きたらさっぱり別れよう、そんな約束まで平気でした。それが人間らしい生き方だったなどと云って、、」
「だが森田はこう云った。そういう考え方は人間を侮辱するものだ。幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつくということは、それがすでに神聖で厳粛だ、、、、きさまは自分を犬けだものにして恥ずかしくないか、この言葉が果たし合いの原因になったんだ、お民、」
「雨にうたれ、濡れて闇のなかをあるきながら、幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつく、それがどんなに厳粛かということを身にしみて悟った」
「お民、おれはお前を本当に愛していた、心から愛していたんだが、あんな約束はしたけど、気持ちには偽りはなかった、これから江戸に行って人間的になる」
そういって半之助はお民と別れそのまま行方しれずになります。