心に残る一冊 その33 「沈黙」と遠藤周作

狐狸庵先生と称された遠藤周作の作品です。必ずしも正統とはいい難いキリスト教思想の持ち主といわれていました。同時に日本のキリスト教界を代表する文学者ともいわれています。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しました。キリスト教の神学者の間でしばしば賛否両論含めた論評の対象になりました。私は素人なのでその根拠はわかりません。言えることはそれだけインパクトのある作品を書いたということでしょう。

「沈黙」のことです。舞台は江戸時代のキリスト教が厳しく禁止されていたころです。そうした中で潜入したロドリゴ神父は、多くの信徒が迫害され殉教していくの目の当たりにします。「神はなぜ応答しないのか、この不可解な沈黙のなかで神を信じる行為とはなにか」。これが「沈黙」のテーマです。

ロドリゴは、長崎奉行所によって捕らえられ、踏み絵を強いられて棄教を迫られます。「このような状況を前に、神はなぜ沈黙されているのか」という大きな疑問を抱き続けます。そしてさらに恐ろしい懐疑がわき上がってきます。「もしかしたら神は存在しないのではないか。」

その間次々と信徒は殉教していきます。殉教という神を信じる行為も神の存在を証明する行為だろうが、それなら殉教という行為が怖くてできない「弱い臆病者」の自分を神は見捨てるのか、自分には救いはないのか、自分は神の存在を信じることができないのか、という問いにロドリゴは苦悩するのです。

踏み絵のキリストが「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声が聞こえてきます。踏みつけた踏み絵を前にして信仰を棄てた自分がそこに立っています。しかし遠藤は、ロドリゴに対して「あなたはイエスの愛を捉え直すことになったのだ。神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのであり、その神の苦しみを感じたあなたという人がいる」というのです。殉教者の叫びに苦悶したロドリゴ自体が神の存在を語っているというのが「沈黙」の中心テーマです。