「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。
「勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。
「藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。
「仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。
こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。